↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/33

第一章「これから宇宙を見に行こうよ」①

 九月一日の午前八時。山本宗平はカーテンの隙間から朝日が差し込む、薄暗い部屋の中で目を覚ます。しかし体を起き上がらせることはできない。重くて動かない体に抵抗するのをやめると、大きな体を投げ打って再び目を閉じる。

 宗平は夢を見ていた。明瞭には覚えていないけれど、たぶん夢を見ていたのだと思う。

 彼の脳裏には妻と娘の残像が写っていた。しかし彼女たちの顔をはっきりと見ることはできなかった。顔の部分に薄暗い霧のようなものが掛かり、二人はこちらを背にして歩き出そうとしていた。まるで自分を置いて行くかのように。

 それは宗平が夢の中で繰り返し目にするイメージだった。そのイメージにまるで自分が囚われているかのような息苦しさがあった。彼は背中に冷や汗をかいていた。その残像を自分の脳裏から追い払わなくては、あの日から自由になることができない。あの日の牢獄に囚われたまま何処にも行くことができない。

 宗平はいつものように憂鬱な朝を迎えていた。その焦燥感は部屋に差し込む朝日と共に彼の身を焦がす。その瞬間だけ、自分の中に心が残っていることを実感する。

 そして沈んだ気分を払いのけるかのようにゆっくりと体を起こす。

 ベッドから起き上がるのはつらいけれど、頭を感情に侵食されるのはもっとつらい。体を起こすと目眩のような不快感が込み上げる。それをベッドの上で座り込みながら必死に耐える。宗平は眉間を押さえる。ゆっくりと呼吸するうちに不快感は収まっていく。

 ようやくベッドから立ち上がると、台所に行って水を一杯だけ飲む。

 そこで深いため息をつく。また一日が始まってしまうのか。自分は何度このような生産性のない日々を繰り返すのだろう。死ぬこともできずただ徒らに生きているだけだ。

 宗平は冷蔵庫にあったエナジーゼリーを一気に飲む。そして缶コーヒーの蓋を開けると少しだけ口をつける。残ったコーヒーを一旦わきに置くと、煙草に火をつける。

 若い頃は煙草を吸っていたけれど、妻と出会ってからは煙草をやめていた。それなのに彼は十年前から再び煙草を吸うようになっていた。今では五十歳を間近に控えて、煙草が体に悪いことは知っている。でも、この虚無感を埋めるためには煙草が欠かせない。

 どうせ長生きしたところで何かがあるわけではない。この体を傷つけたところでもはや失うものは何もない。ただ毎日を無駄に消費しているだけだ。

 宗平は再びコーヒーに口をつけて、指の隙間から煙を肺に吸い込む。

 煙草を吸い終わるとシャワーを浴びる。全身にこびりついたものを洗い流すかのように熱いシャワーに体を濡らす。朝のシャワーが毎日の習慣になっている。

 浴室から出て全身を拭くと、半袖のワイシャツに着替えて黒いネクタイをする。これも宗平にとってはただの習慣だ。十年前に葬式で黒いネクタイをつけてから、なぜかそれを外す気にはなれずに今日まで来ている。

 宗平はベルトを締めるとソファに座って本を読む。それも毎日の習慣に過ぎない。別に何か読みたい本がある訳ではない。子供の頃からの習慣で活字を読まないと落ち着かないだけだ。彼が読んでいるのは宇宙についての学術書だった。内容自体に目新しさはない。それでも宇宙についての文章を読むことは習慣になっている。

 宗平は研究の世界からは身を引いたけれど、今でも研究論文は欠かさずに読んでいる。そこに何か目的があるわけではない。長らく続けている習慣をやめることが自分にとって不自然だからだ。新しく知識は増えていくけれど、それでどこかに辿り着く訳ではない。今の彼にとってはただの無用の長物にすぎない。あくまでもただの習慣なのだ。

 文章を読むことに没頭しているうちに時間は過ぎている。気がつくと時刻は午前十時になっている。ソファから立ち上がると凝った筋肉をほぐすように伸びをする。

 そして煙草とライターを胸のポケットに入れると、いつものように屋上に行く。

 宗平は新宿にある古いビルの一室に住んでいる。ビルには他に居酒屋やクリニックなどのテナントが入っている。彼はそのビルのオーナーだった。とは言っても、それは実業家だった父の遺産を引き継いだに過ぎない。現在はビルの家賃収入で細々と生活している。他に仕事はしていない。以前は天文学の研究者だったけれど、今では毎日をひたすら無為に過ごしているだけだ。

 宗平にとってビルの屋上に行くことも毎日の習慣のひとつだった。理由はずっと部屋の中に籠っていると息が詰まるから。それだけだ。どこかに散歩に行くのは億劫なので屋上で済ませている。屋上の柵にもたれて、街の景色を見ながら日光を浴びる。手には煙草を持っている。首元の黒いネクタイに手を添えながら煙草を吸うのがいつもの癖だった。

 この日も宗平は習慣として屋上に行っただけだ。でも、その習慣はイレギュラーな存在によって崩れてしまう。普段は誰もいないはずの屋上にひとりの少女がいる。その少女は黒いワンピースを着て、眩しそうに手でひさしを作りながら街の光景を眺めている。宗平はそこで世界が揺らぐような衝撃を受ける。それが少女との出会いだった。その出会いが運命的なものであるとは思いもせずに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。