第六章「そんなことがもし実現するのなら」⑥
そこまで話すと、綾華はひと呼吸を置く。過去のいじめについて話していると、次第につらくなる。彼女はあまりのつらさに涙が出そうになる。それを見た宗平は言う。
「我慢しなくていいんだ。つらいときは泣けばいい。たくさんのことを思い出してつらいだろう。過去を振り返るのは一旦やめよう。そしてゆっくり休憩しよう。ホットミルクを入れてくる。君はソファで横になったらいい」
「ありがとう。ちょっと横にならせてもらうね」綾華は目に涙をためながら言う。
宗平がホットミルクを用意すると、綾華はそれを少しずつ口の中に入れていく。心身が次第に温かくなるのを感じる。疲れきった綾華はしばらくソファで横になっている。宗平はそんな彼女のことを何も言わずに見守っている。そのまま、静かな時間が過ぎていく。綾華はまどろみの中で思う。自分がこれまでいかにつらい思いをしてきたか。先生と一緒に穏やかな時間を過ごしていると、それをはっきりと自覚する。やはり自分はつらかったのだ。どれだけ抑え込もうとしても、心は悲鳴を上げていたんだ。そして、先生の存在の大きさを思う。自分は先生がいると安心することができる。これまでどんな大人にも感じなかった安心を得ることができる。自分はこれからも先生と一緒にいたい。先生のそばで生きていきたい。そんな思いが大きくなる。
「先生、ありがとう。私の話を聞いてくれて。今までそんな大人はいなかったからとても嬉しい。中学生になっても私へのいじめは続いた。たくさんの誹謗中傷を浴びてたくさんの暴力を受けた。私はどうすればいいのか分からなくて、されるがままになっていた。私はとにかく心を閉ざしていじめを耐えていた。
高校生になるとそれまでの同級生たちと離れることになった。それでいじめは終わると思っていたの。実際にしばらくいじめられることはなかった。でも心の殻を閉じてしまうせいで友達はひとりもできなかった。楽しそうな同級生たちを見てうらやましいと思っていた。私は孤独だった。ひとりぼっちはつらかった。だから、いじめがないだけマシだと思うようにしていた。孤独にさえ耐えればいいと思うようにしていた。
でも、ついに高校にも私が犯罪者の娘であることが露見した。そしてやっぱりいじめは始まった。私に対する誹謗中傷や暴力が繰り返されるようになった。私はどこにも逃げ場がなかった。先生のことを傷つけた私は先生にも頼れなかった。私はどこに行っても排斥される運命にあるんだと思った。ねえ、先生。私はこれからどうすればいいのかな。どうすればこのつらい運命から逃れられるのかな。先生、助けて……」
そして綾華は大粒の涙を流す。そんな彼女を見て、宗平も目に涙を浮かべる。
「僕は君のことを助けたい。そのためにできることはないかと考えていた。僕からの提案はこうだ。まずは病院を受診する。そこで、君が受けた暴力について打ち明ける。そして警察に繋いでもらう。君に暴力を振るったのは君の知っている人たちだろう。その人たちに正しい罰を受けてもらわなければならない。そして君は転校するんだ。でもそれだけでいじめは終わらない。君が犯罪者の娘であるという事実はどこまでもついてまわる。その事実がある以上、君は誹謗中傷や暴力に怯えなければならない。だから僕は考えた。君が運命の連鎖から逃れる方法は、名前を変えてしまうことだ」
宗平は綾華に向かって大きな熱量で語りかける。彼女はそこで首を傾げる。
「名前を変えるってどうすればいいの?」
「君にひとつ提案がある。僕の娘にならないか? 君と養子縁組がしたいんだ」
綾華はその提案を聞いて夢のような心地がする。自分が先生の娘になる。それは自分が望みながらも絶対に叶わないと思っていたことだから。名前を変えて「山本綾華」になり犯罪者の娘という呪縛から解放される。そんなことがもし実現するのなら。
「先生にそう言ってもらえてすごく嬉しい。でも先生は本当に良いの? 私は先生の家族を殺した犯罪者の娘なんだよ。私が先生の娘になることを受け入れられるの?」
「もちろんそのつもりで言っている。君は確かにあの男の娘かもしれない。でも、それがどうしたというんだ? そんなことは関係ない。君は罪のないただの女の子なんだから。僕は前から君のことを娘のように思ってきた。君と過ごしているときの僕は楽しかった。誰かと過ごすことの喜びを君は思い出させてくれた。かつて僕が家族と過ごしていたときの笑顔を君は思い出させてくれたんだ。血なんて関係ない。憎しみなんて関係ない。僕は君と一緒にいたいんだ。いつしか君は言っていた。人生の意味を見つけたら答えを教えて欲しいと。僕はまだその答えを見つけられていない。でもひとつだけ確かなことがある。僕は人生の意味を君と一緒に見つけたいんだ。僕だけの人生の意味なんていらない。僕は君との人生の意味が欲しいんだ」
宗平はためていた思いをぶつける。綾華は涙を流しながらそれを受け止める。
「私はもうすでに人生の意味を見つけたんだ。それは先生と一緒に過ごすこと。それ自体が私にとっては大切な人生の意味なんだ。私は先生の娘になりたい。そして先生と一緒に生きていきたい。どうか、私を先生の娘にしてください。私を山本綾華にしてください。よろしくお願いします」綾華は深く頭を下げる。
宗平は彼女の存在を受け入れる。そして二人はお互いのことを力強く抱きしめる。




