第六章「そんなことがもし実現するのなら」④
宗平は薄手のコートを着て、新宿の街を歩いている。買い物に出かけるところだった。綾華はいなくなったけれど、一度ついた習慣は簡単には無くならない。彼は自分で料理をしなければ気が済まなくなっている。健康に長生きしてほしいんだ。そんな彼女の言葉を思い出す。彼女が浮かべていた眩しい笑顔を思い出す。彼女は自分を裏切った。娘の名前をかたって自分を騙していた。その憎しみを考えるとき、同時に彼女との楽しい思い出がよみがえる。彼女のことを忘れられない。そんな相反する気持ちに苦しんでしまう。
ふと気づいたとき、宗平が考えているのはいつも綾華のことだった。彼女は今どうしているのだろうか。今でも元気にやっているのだろうか。そんなときに思い出すのは、彼女が浮かべていた寂しそうな表情だった。彼女は言っていた。自分はひとりぼっちなんだ。そのことを思うと、どうしようもない不安に駆られる。彼女がひとりで泣いているところをつい想像してしまう。こんなことではいけない。彼女のことは忘れなければならない。そう自分が思うほどに、むしろ彼女のことが忘れられなくなる。
綾華に会いに行こう。そして彼女を許そう。その可能性を何度、考えたことか。でも、そのたびに娘の笑顔を思い出す。そして綾華が犯した罪を思い出す。彼女を許すわけにはいかない。その思いが自分をがんじがらめにする。
そこで宗平は一匹の猫に遭遇する。路地裏から現れた猫は足元に血がついている。怪我をしているのだろうか。心配になった彼は猫に近づく。猫は彼を見つめたまま、どこにも逃げない。見たところ猫に傷はない。血はどこかでつけてきたものらしい。彼は路地裏を覗き込む。そこは日が当たらない行き止まりであり、往来する人影はまったくない。猫はその奥に向かって「ニャー」と鳴く。
そこで宗平は気がつく。路地裏には猫がつけた血の足跡が続いている。そして血の足跡を辿っていくと、奥の物陰から小さな何かがはみ出していることが分かる。最初はそれが何なのか分からなかった。でも、目を凝らしているうちに戦慄が走る。よく見ると人間の足ではないか。その近くには血だまりがある。彼はふと考える。死体が落ちているのではないだろうか。いずれにせよ一大事であることは間違いない。
宗平は及び腰になりながら近づいていく。そして不意に気がつく。足がわずかに動いたことに。あの人は生きている。そう直感すると、いつの間にか駆け出している。彼は家族が血まみれで倒れているところを思い出す。あのとき自分は彼女たちを助けることができなかった。だからこそ、自分は動かなければならない。あの人を助けなければならない。それは自分に課せられた義務なのだ。
宗平はそこで頭が真っ白になる。ひとりの少女が裸で倒れている。その全身は傷だらけになっている。血は少女の下半身から流れている。その目は焦点が合っていない。ただし彼女が絶望の中にいることは明らかに分かる。彼は目の前にしている現実をしばらく受け入れられない。それでも彼の直感は言っている。自分はこの世のものとは思えない地獄を目の当たりにしている。そして、それは彼が考えられる限りで最悪の地獄であると。
彼は少女を直視することができない。直視した瞬間にすべてが確定してしまうからだ。けれど、彼はすでに知っている。その少女が誰であるのか。彼はその目を見てしまった。そして彼女が絶望していることを悟ってしまった。他の誰を見間違えても、彼女のことを見間違えるはずがない。これまでずっと彼女のことばかりを考えてきたのだから。
やがて彼女のうめき声が聞こえる。宗平は気がつくとそちらを見ている。そして不意に彼女と目が合うことになる。彼女はしばらく虚ろな目を向けている。しかし次第にその目は大きく見開かれることになる。彼女の唇は震え出す。そしてかすれた声で言葉を紡ぐ。
「先生、どうして……」綾華の目には涙が浮かぶ。そしてそれまで欠けていた光が宿る。彼女はとっさに起き上がると、慌てて自分の制服をかき集める。胸元と下半身をその服で覆い隠す。彼女の頬は赤くなっている。
「まずは制服を着てほしい。話はそれからだ」そう言って、宗平は後ろを向く。
「分かった。ちょっと待っていて」綾華は震えた手で一つずつ制服を身にまとう。
綾華の身に何が起こったのか。それは状況を見れば想像に容易い。彼女は暴力を受けたのだ。それも単なる暴力ではない。心を壊しかねない圧倒的な暴力があったことは彼女に聞かなくても分かる。宗平は後ろを向きながら、自分が大きな怒りに駆られていることに気がつく。彼女をこんな目に遭わせた加害者に対する抑えられない怒り。そして、彼女に対するいたたまれなさ。拒絶したことへの申し訳なさ。
確かに、彼女は自分の家族を殺した死刑囚の娘だ。そして自分のことを騙していた罪もあるかもしれない。でも、果たしてその罪はこんな目に遭わされるほど大きなものだったのか。世間から拒絶され、誹謗中傷に遭い、そして圧倒的な暴力を受けるほどの大きな罪なのか。いや、そんなことはない。あるはずがない。むしろ彼女は父親や世間の身勝手に振り回されてきた被害者ではないのか。彼女に対するインターネット上の攻撃的な言葉は見るに耐えないものだった。個人情報の侵害と言葉の暴力であふれていた。現在進行形のいじめを示唆する書き込みもたくさんあった。そのほとんどが無理解と不寛容に染まっていた。彼女はそれほどに罪深い存在なのか。いや、罪のないただの女の子ではないか。
「先生、もう大丈夫だよ」力のない声で綾華は言う。精一杯の作り笑顔を浮かべている。
「無理に笑う必要はない。つらいときは泣いた方がいい」振り返った宗平は言う。
「どうして? 私は罪深い存在だから、どんなことも受け入れなければいけない。つらいときに泣く権利はないの。誰もそれを許してくれなかった」
綾華はぎこちない作り笑顔を浮かべたまま言う。でも、その声は今にも泣き出しそうに震えている。彼女があふれそうな涙をこらえていることは明らかだ。
「申し訳ない。僕は君のことを拒絶してしまった。でも、僕は君のことを許そうと思う。いや、許すも何も、君は罪のないただの女の子だ。むしろたくさんの暴力に晒されてきた被害者だ。君は何も悪くない。君は決して罪深い存在ではないんだ」
宗平は綾華に訴えかけるように言う。自分が感情的になっているのが分かる。
気がつくと彼の目には涙があふれている。
「どうして先生が泣いているの?」綾華は震える声をこらえるように言う。
「君の立場になってこれまでの気持ちを想像したからだ。つらかっただろう。苦しかっただろう。君はまだ十代の子どもなのに、あまりにもたくさんの苦しみを抱えている。君が抱えてきた荷物のほんの一部でもいいから、僕にも一緒に抱えさせてくれないか」
綾華はそこでようやくひとすじの涙を流す。やがて、言葉にならない嗚咽があふれる。彼女は声を上げて泣く。今までこらえてきた分、彼女は思いきり泣き声を上げる。宗平は気がつくとそんな彼女の震える体を抱きしめている。彼の頬にも涙が流れている。そして二人は涙が枯れるまで泣きつづける。路地裏の向こうでは通行人たちが気づかないふりをして歩いていく。一方で、猫は二人のことを黙って見上げている。
泣き疲れたあとで綾華は言う。その表情には自然な笑顔が戻っている。
「ねえ、これから先生の部屋に行ってもいい? 先生に話したいことがたくさんあるの」
「もちろん構わないよ。一緒にたくさんのことを語ろう」
宗平の表情にも穏やかな笑顔が浮かんでいる。彼は傷ついた綾華のために背中を貸す。綾華は安心したように先生の背中に体を預ける。そして二人はゆっくりと宗平の部屋まで歩いていく。道中ではたくさんの人たちが二人に視線を向ける。その中には二人の関係を疑問視するような視線もたくさんある。宗平はそんな好奇の視線から綾華をかばうように一歩ずつ足を進めていく。部屋に戻ると、宗平は綾華をソファに座らせる。そして温かい毛布を渡すと、彼女のためにホットミルクを入れる。綾華はそれを両手で受け取る。彼女はホッとため息をつく。彼女の体に温もりがよみがえる。




