第六章「そんなことがもし実現するのなら」③
十月十日の午前八時、綾華は重い体を引きずるように施設を出る。本当は学校になんか行きたくない。彼女へのいじめが始まったからだ。彼女が犯罪者の娘であると学校に露見してから、精神的に傷つけるような言葉の暴力が始まった。以前は誰も彼女と関わろうとせず、無視されているだけだった。それでも彼女には十分つらいものだった。でも、最近は公然と彼女に暴言を浴びせる人たちが現れた。うざい。死ね。消えろ。お前には生きている価値なんてない。そんな言葉がためらいなく投げかけられるようになった。
身体的な暴力は初日以来ほとんどなくなったけれど、言葉の暴力があまりにもつらくて綾華は泣いてしまうこともあった。けれど、そんな彼女をひとりも助けてくれなかった。むしろ犯罪者の娘は非難されて当然だという空気ができあがっていた。直接的には彼女に暴言を吐かない人も、彼女が傷ついているのを見て平然と笑っていた。あるいは傷ついている彼女に関心がない人たちもたくさんいた。
綾華のものが傷つけられることもあった。体操服を隠されたり、ノートにひどい落書きをされたり、大切にしていたお守りを壊されたりした。そのお守りは遥楓が作ってくれたものだった。あるいはお金を取られることもあった。彼らは堂々と財布を奪い、その中身を取っていくのだった。彼女はそのたびに心が踏みにじられるのを感じた。
そしてこの日も、学校に行くと綾華はいじめに晒される。学校は地獄のようなところになっていたけれど、彼女が学校に行かないという選択肢は許されていなかった。なぜなら彼らに言われたからだ。もし学校に来なければお前の部屋に乗り込むことになる。そこでどんなことが行われるのかは説明しなくても分かるだろう。彼らが浮かべた表情はこの世のものとは思えない悪意に染まっていた。彼女はその悪意に震え上がった。
学校の教師たちは綾華へのいじめを黙殺した。彼女は犯罪者の娘なのだから、誹謗中傷や暴力に晒されるのは当然のことだ。職員室にもそんな空気ができあがっていた。教師の中にはむしろ彼女に暴言を浴びせる者もいた。あるいは、彼女がいじめに遭っているのを見て生徒たちと一緒に嘲笑する者もいた。そうでなくても、彼女に手を差し伸べてくれる大人はひとりも学校にいなかった。むしろ彼女に手を差し伸べることがあれば、その人が糾弾されかねないという不穏な空気すらできあがっていた。
綾華の味方になってくれる人は学校にひとりもいなかった。そして施設にも彼女が心を開ける人はいなかった。彼女は圧倒的な孤独の中にいた。自分が精神的に追い詰められているのが分かった。それでも彼女にはどうしようもなかった。あまりのつらさに耐えられなくなった彼女はこの日、午前中の休み時間に学校を早退してしまう。
施設に帰りたくない綾華は、新宿の街をさまよう。怪しい大人たちから声をかけられるけれど、彼女は聞こえなかったかのように無視をする。そんな彼女に罵声を浴びせる人もいる。彼女はそれを心の痛みと共にやり過ごす。自分はどこにいても誹謗中傷に晒される運命にあるのだ。世界のどこからも排斥される運命にあるのだ。汚れた血を持った自分はそれを受け入れなければならない。この世界は自分の居場所ではないのだから。
新宿の喧騒がすべて自分への誹謗中傷に思えてくる。街の人たちがすべて自分の敵だと思えてくる。綾華は街に溶け込むこともできず、雑踏の中にいることがつらくなる。群衆から逃げるように、彼女は人のいない路地裏に入り込む。そこで彼女は深呼吸をする。人がいないって素敵だな。誰もいない世界に逃げてしまいたい。そんなことは許されないと分かっているけれど。そんな世界なんてないと分かっているけれど。
路地裏の片隅で、猫が昼寝をしているのを見つける。綾華はそっと近づいてみる。猫は彼女の方をチラッと見ると、あくびをして昼寝をつづける。よかった。猫はまだ自分の敵ではないみたいだ。彼女は昼寝をしている猫のとなりに座り込む。そしてビルの隙間から見える狭い空を眺める。そこにあるのは灰色の雲だけだ。それでも彼女は安心する。世界には悪意のない場所もまだ存在しているのだ。彼女はいつの間にかうたた寝している。
まどろみの中にいた綾華は突然、肩を大きく揺すぶられる。ぼんやりとした意識で目を開くと、そこには何人かの男たちが彼女を囲っているのが見える。彼女はしばらく彼らが誰なのか分からない。しかし意識が覚醒してくると突然、彼女の体を強烈な悪寒が襲う。彼女は不意に気づいてしまう。彼らがいじめの発端となった男子生徒たちであることに。早退した彼女のあとをつけてきたのだ。彼らは悪意のある嘲笑を浮かべている。
綾華はそこで大きな恐怖に駆られる。こんな人のいないところで彼らと一緒にいたら、何をされるか分かったものではない。彼女はとっさに逃げ出そうとする。けれど、彼らに羽交締めにされて身動きが取れなくなる。彼女は物陰に押し倒される。叫び声を出そうとするけれど、それを察した彼らは口にハンカチを押し込む。彼女は声を出せなくなる。
押さえつけられて抵抗ができなくなった綾華は、絶望の中で目に涙を浮かべる。そんな彼女の涙を見て、彼らは笑い声を上げる。彼女の制服は脱がされていく。下着だけの姿になる。その姿を写真に収めると、彼らは下着も奪い取る。全裸になった彼女は殴る蹴るの暴行を受ける。よだれを垂らしながら苦悶の表情を浮かべる。そして彼女は今まで使ったことのない大切なものを犯される。それは強烈な痛みを伴う。自分の心が死んでいくのを自覚する。やがて彼女は路地裏に捨て置かれる。あたりには血が散らばっている。




