第五章「自分はひとりぼっちだった」⑥
宗平はその生徒手帳を拾い上げる。どうしてこんなところに生徒手帳があるのだろう。生徒手帳の表紙には制服を着たハルカの顔写真が載っている。そこで彼は知ってしまう。ハルカの正体が十六歳の高校一年生であることに。新宿の高校に通っている彼女の本名は「工藤綾華」だった。彼は表情を曇らせる。その名前には心当たりがあった。パソコンを開くとインターネットで彼女の名前を検索する。嫌な予感が的中したことを知る。現代は恐ろしい時代だと思う。彼女の情報が顔写真つきでたくさん出ている。そして彼女の父親の名前が「工藤士郎」であることを確認する。苦悶の表情で目を閉じると、深いため息をつく。考えうる限りで最悪の結末だと思う。工藤士郎は殺人事件の犯人だった。ハルカの正体である工藤綾華は、宗平の家族を殺した死刑囚の娘だったのだ。
宗平の心には言葉にならない激しい怒りが湧き上がる。工藤綾華の生徒手帳を手に取ると、思いきり部屋の壁に投げつける。彼女はあの男の娘でありながら、その正体を隠して自分に近づいてきたのだ。あろうことか自分の大切な娘である遥楓の名をかたり「まるで先生はお父さんのようだ」とうそぶいた。彼女は自分の心を蔑ろにする言動を繰り返していたことになる。到底、許せるものではない。握り拳をつくるとテーブルを思いきり殴りつける。気がつくと右手には血がにじんでいる。それでも、痛みは麻痺している。
生徒手帳を落としたことに気づいた綾華が戻ってくる。部屋の状況を見て、恐れていた事態が持ち上がっていることを理解する。自分はとんでもないことをしてしまった。その悔いと焦りと申し訳なさが彼女に襲いかかる。気がつくと手が震えているのを自覚する。ビルの屋上で初めて宗平と出会ったとき、彼女はすぐに気がついた。自分の父親が殺した被害者の遺族であることに。だから初対面の彼女は声が震えていた。
素性を明かせない綾華は、名前を訊かれてとっさに宗平の娘であるハルカを名乗った。それはいくら悔やんでも足りないほどの失敗だった。自分の正体を知ったら、先生が深く傷つくことは明らかだった。けれど一度でも口にしたものは元に戻らない。だから彼女は自分の正体を明かせないまま、今日まで来てしまった。それなのに先生のことが好きだという思いは日ごとに大きくなっていく。その感情と倫理観の狭間で苦しんでいた。彼女は自責感に押しつぶされそうになりながら、震える声で精一杯に言葉を絞り出す。
「本当にごめんなさい」綾華はあふれそうな気持ちを必死に抑える。自分は泣くことすら許されないと思う。宗平は頭を押さえてうなだれながら、静かに口を開く。
「僕の前にもう二度と現れないでくれ」宗平は絶望と無感覚に襲われている。綾華は肩を落として何も言わずに部屋を出る。そこには悲痛な表情が浮かんでいる。
綾華が部屋から出ていくと、宗平に強烈な倦怠感が襲いかかる。椅子に座っていることもできず、ベッドまで這うように移動するとそこに倒れ込む。言葉にならない息苦しさを感じた彼は、自分が水色のネクタイをつけたままであることに気がつく。そのネクタイを首元から乱暴に外すと、部屋の隅に投げつける。
しかしそこで彼の脳裏に浮かんだのは、綾華の楽しそうな笑顔だった。どうしてそんなものを思い浮かべなければならないのか。彼は苛立ちを感じる。それでも屈託のない彼女の笑顔が脳裏から離れない。同時に、彼女が浮かべた悲痛な表情が重なる。その表情には見覚えがあった。家族を失ったあと、鏡に写っていた自分の表情とよく似ていた。それは大切な人を失った絶望の表情だった。彼女は父親のような存在を失ったのだ。そのことに思い至った彼は、かつての自分が抱いていた虚無感に襲われる。
いつの間にか宗平は煙草を手にとっている。綾華と出会って以来、吸わなくなっていた煙草を欲していることに気がつく。その欲求に抗えなくなった彼は、ベッドから重い体を起こすと煙草に火をつける。苛立った気持ちを抑えるために煙を吸う。それでも彼の脳裏から綾華の存在が消えることはない。落ち着きは元に戻ってこない。彼は必死にその存在を打ち消そうとする。彼女のことは忘れなければならない。
綾華は重い足を引きずりながら帰路を歩いている。ビルから出ると耐えられなくなった彼女は涙を流す。自分は許されないことをした。いちばん大切な人を傷つけてしまった。かけがえのない存在を失ってしまった。それは罪深い自分に課された罰なのだ。これから永遠の孤独を背負わなければならない。もう二度と温もりを求めてはならない。あらゆる非難を受けなければならない。救済のない地獄を生きねばならない。自分は幸せになってはならない。それが背負うべき宿命なのだ。
綾華はふと思う。自分の命を絶ってしまおうか。もともとそのつもりだったのだから。でも彼女は思い直す。自分にはその選択すら許されていない。自分に人生を選択する権利はない。生きたまま罰を受けなければならない。死んで逃げることは許されない。
彼女は力なく歩いていく。途中で若い男たちに声をかけられる。でもその声が彼女の耳に届くことはない。彼らの怒りを買った彼女はみぞおちを殴られる。うめき声を出して、よだれを垂らしながらその場にうずくまる。彼らの嘲笑する声が聞こえる。これも自分が受けるべき罰なのだと彼女は思う。自分は殴られるに相応しい罪を犯したのだ。世界から糾弾されるべき人間なのだ。重い罪を背負って生きていかなければならない。彼女の表情はいつの間にか絶望の中で曇っている。そして二人は孤独な日々に戻っていく。




