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第五章「自分はひとりぼっちだった」⑤

 二人はそれからも他愛のない会話をする。そして会話が止まると夕暮れの海を眺める。二人の間には穏やかな時間が流れている。こんな時間がいつまでも続くといいな。ハルカはひそかにそう思っている。もし先生が本当のお父さんだったら。自分はまったく違った人生を送っていたのかな。そんな空想に身を委ねてみる。もしそうなら自分は幸せだったのかもしれない。気がつくとハルカは宗平の肩に寄り添っている。

「ごめんなさい、先生。でも、今だけこうしていてもいい?」

 宗平は何も言わない。でも、自分の存在を受け入れていることが肩から伝わってくる。

「私には家族がいないの。だから思うんだ。先生がお父さんだったら良かったのに」

「僕は君が思うほど立派な人間ではないよ」宗平は海を眺めている。

「知ってるよ。そんなことくらい。それでも、先生は私が出会ってきた人の中でいちばん優しい。だから、私は先生のことが好きなんだ」

 宗平は何も言わない。だからこそ、先生のことが好きなんだとハルカは思う。

「ありがとう。何も言わないでくれて。しばらくこのままじっとしていたい」

 そのまま静かな時間が流れていく。ハルカは目を閉じて先生の存在を感じる。胸の鼓動が高まっているのが分かる。同時にホッとした気持ちになっている。やがてハルカの頬を冷たい風が通り過ぎる。目を開けると空は紺碧に染まっている。太陽はもう見えない。

「夜になったね。そろそろ帰るか」ハルカは先生の肩から体を起こす。

「そうだね。あんまり帰りが遅くなるのは良くない」宗平は穏やかに言う。

 二人は立ち上がると海沿いの公園をあとにする。駅に向かう途中でハルカが言う。

「ねえ、今だけは先生にくっついてもいい?」ハルカは宗平の腕にしがみつく。

 宗平は何も言わず、ポケットに手を入れている。でも、ハルカを拒絶することはない。

「ありがとう、先生」ハルカは束の間の幸せを感じている。

 東京テレポート駅に着くと、ハルカは先生から体を離す。そして二人は新宿駅に戻る。電車の中で二人は何も話さない。でもその無言の時間をハルカは苦痛に感じない。むしろ黙っていても平気な二人の関係を嬉しいと思う。それだけ距離が近づいたような気持ちになる。明日も先生に会いに行こう。そしてたくさん笑おう。先生がいれば幸せになれる。今はそんな気がしている。ハルカはささやかな思いを秘めて宗平のとなりに立っている。やがて電車は新宿駅に到着する。そこから歩いて二人はビルの部屋に戻る。

「今日はありがとう、先生」部屋に置いていたリュックを背負うとハルカは言う。

「気をつけて帰るんだよ」宗平は玄関まで見送る。そしてハルカは部屋をあとにする。

 ひとりになった宗平は部屋を見渡す。さっきまでの喧騒が嘘のように、静寂があたりを支配している。虚無感を抱いている自分にふと気がつく。ハルカがいないだけで虚無感がよみがえるなんて。自分はなんて情けないのだろう。煙草を吸いたくなる気持ちを必死に抑える。彼女がここに来るからには、かつての自分に戻るわけにはいかない。大人として彼女に悪影響を与えてはいけない責任がある。

 宗平は気持ちを鎮めるためにコーヒーを淹れる。心身に温もりがよみがえる。ひと息をつくと、今日の出来事をふりかえる。ハルカが誕生日を祝ってくれた。部屋を飾り付けてケーキを作ってプレゼントをくれた。水色のネクタイは少しだけ恥ずかしかったけれど、プレゼントをもらえるのは悪い気がしない。黒色のネクタイという習慣から逃れられない自分にはちょうど良かったかもしれない。明日からも水色のネクタイにしようかと迷っている。そのことが自分には不思議に思えてしまう。それから彼女と屋内遊園地に行った。絶叫マシンに乗って吐き気を催した。そんな自分を見て、彼女は楽しそうに笑った。その笑顔が涼夏と重なり、なんだか懐かしい気持ちになった。

 海沿いの公園に移動すると、ハルカは悩みを相談してくれた。自分が上手く答えられたのかは分からないけれど、それほどに自分を慕ってくれることは素直に嬉しいと思えた。そして彼女は自分の肩に身を預けた。帰りには自分の腕にしがみついた。それが倫理的に正しいことなのかは分からない。でも、孤独な彼女は切実に誰かの温もりを求めていた。そのことが直感的に分かった。だから何も言わずに彼女を受け入れた。おそらく彼女には正しいか否かに関わらず、その行為が必要だったのだろう。拒絶すれば間違いなく彼女は傷ついていた。場合によると破滅的な結果をもたらしたかもしれない。それは自分の望むところではない。彼女には幸せになってほしいのだ。

 宗平はコーヒーを飲むとハルカの言うとおりに料理をする。今日はほうれん草を混ぜたオムレツにしようと思う。あとはご飯と味噌汁と簡単なサラダをつくる。それで彼女にも文句はないだろう。しばらく毎日夕食を用意しているうちに、料理には慣れてきたという自負がある。次第に料理をするのが楽しくなってきた。彼は手際よくオムレツをつくる。見た目も味も納得のいくものになった。写真を撮って彼女に送るとひとりで黙々と料理を食べる。ここに彼女がいればと思う。そんな自分に驚いてしまう。彼はそこで見慣れないものが床に落ちていることに気づく。近づいてみると、それは誰かの生徒手帳だった。

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