第五章「自分はひとりぼっちだった」①
九月二十日の午前八時、五十歳の誕生日を迎えた宗平は目を覚ます。以前の朝は憂鬱のせいで体が重くて起き上がるのに苦労していた。でもハルカと出会ってからはスムーズに起きられるようになっていた。どうしてだろう。もしかすると彼女との出会いが良い方向に作用しているのかもしれない。コーヒーを入れながら彼女との日々を思い出す。
ハルカは一日も欠かさず宗平の元にやってきた。午前十時にビルの屋上に行くと、彼女はすぐに現れた。そして他愛もない会話をしていくのだった。寝起きの彼はいつも険しい表情をしていたけれど、彼女と話しているうちに表情がやわらかくなった。思わず笑顔になっていることもあった。そのことを彼女はよく指摘して、嬉しそうに笑っていた。
昼になるといつも一緒に食事をした。食材は宗平がまとめ買いをしていたけれど、主にハルカが簡単な調理をしてくれた。彼女が作ってくれる料理はどれも美味しかった。施設のお姉さんが教えてくれたんだと彼女は言った。食事の後はソファで昼寝をするのが彼の習慣だった。その間に彼女はよく部屋の掃除をしてくれた。そして気がつくとテーブルでうたた寝をしているのだった。
午後はいつも一緒に出かけた。というより、部屋にこもってばかりでは不健康だというハルカに無理やりどこかに連れていかれたという方が正しい。ショッピングをすることもあれば、公園に出かけることもあった。映画館に行くこともあれば、カフェでのんびりと過ごすこともあった。
そして夕方になると、施設の人たちが待っているからとハルカは帰路についた。宗平と夜を過ごすことは一度もなかった。山梨まで天体観測に出かけたとき、外泊許可を取っていなくて施設の人たちに怒られたからだと彼女は言った。
一人になると宗平はよくスーパーに出かけた。そして慣れない手つきで夕食を作った。食事に気を遣わなくてはダメだとハルカに注意されたからだった。連絡先を無理やり交換させられて、毎日作ったごはんを写真で送るように言われた。それを面倒だと思っていたけれど、他にやることがなかったので素直に従うことにしていた。
宗平はいつしかハルカのことを娘のように思っていた。もちろん自分にとっていちばん大切なのは家族だけれど、彼女のことも大切にしている自分に気がついた。そして彼女も言ってくれた。まるで先生はお父さんみたいだと。そして先生のおかげで死にたい気持ちが消えているんだとも言ってくれた。そのことを嬉しく思っている自分がいた。
宗平はトーストを焼いて食べるとシャワーを浴びる。そしていつものようにワイシャツの上に黒いネクタイを締めると、読書をしながら午前十時が来るのを待つ。今日は宇宙に関する本ではなく、ハルカに勧めてもらった小説を読んでいる。今までは小説をほとんど読まなかったけれど、彼女が熱心に勧めるので買ってみたのだった。彼が読んでいるのは村上春樹の「海辺のカフカ」。孤独な少年が旅を通じて成長していく物語だった。
「私はこの主人公にとても共感するんだ! 面白いから先生も読んでみてよ」
ハルカは興奮を抑えられないように語った。田村カフカという偽名を語り、生きていくために大人のふりをする十五歳の少年。暴力的な苦難を乗り越えて、彼は成長していく。ハルカが彼のどこに共感をしたのかは分からない。けれど自分も孤独な十代を送ってきた身として、カフカ少年の冒険には心が踊るのを自覚する。
宗平は時間を忘れて読書に耽っている。気がつくと時刻は午前十時五分になっている。彼は慌ててビルの屋上に向かおうと立ち上がる。そこで部屋のチャイムが鳴る。彼がドアを開けると、そこにはいつものようにリュックを背負ったハルカがいる。白いTシャツにデニムのショートパンツという格好の彼女は、心配そうにこちらを見上げている。
「先生、大丈夫? 屋上にいないから体調を崩したのかと気になって」
「大丈夫だよ。君が勧めた本を読んでいるうちに、時間を忘れて夢中になっていたんだ」
「そうなの? なら良かった。海辺のカフカは面白いよね」
「君が夢中になるのは何だか分かる気がするよ。外は暑いだろうから、とりあえず部屋に入って。もしくはこのまま屋上に行ってもいいけれど」
「まずは荷物を置かせてもらおうかな。のどが乾いたからお水をくれる?」
「分かった」そうして二人は部屋に上がる。
ハルカがソファに座ると、宗平はコップに入れた水を差し出す。その水をハルカはのどを鳴らして一気に飲み干してしまう。口元を手でぬぐうとハルカは空いたコップを宗平に返す。そして部屋を見渡すとハルカは言う。
「今日はきれいにしているね。昨日まとめて掃除した甲斐があったよ」
「ありがとう。油断するとすぐに部屋を散らかしてしまうからね。君が気にかけてくれるのは助かるよ」宗平はコップを台所に持って行きながら言う。
「そう言ってくれると嬉しいな。先生のお役に立てたのなら良かった。ところで、先生に言っておきたいことがあるんだ。先生、五十歳のお誕生日おめでとう」
「ありがとう。僕の誕生日を覚えているのは世界で君ひとりだけだよ」




