第四章「なんて弱い人間なのだろう」⑤
遥楓は頬に涙を流しながらその場に倒れこんだ。彼女の胸は血で染まっていた。宗平はその一部始終をはっきりと目にした。その映像はそれから何年経っても彼を苦しめることになる。遥楓は倒れながらも、その目は宗平に最後まで救いを求めていた。同時に彼女の瞳は絶望に染まっていた。宗平は満身創痍になりながら遥楓の小さな体にすがりついた。彼は涙を流して慟哭の叫び声を上げていた。そのまま宗平の意識は薄れていった。
宗平は一命を留めた。しかし、病院に運び込まれた彼の家族はその死亡が確認された。彼は自分の運命を呪った。最愛の家族との別れを知った彼は絶望した。生きていくための気力が自分の中から失われていくのを実感した。宗平の家族を殺した男は、そのあとすぐ公園の大人たちに取り押さえられた。男は抵抗するそぶりを見せなかったという。宗平は男の行く末など、どうでもよかった。死刑判決を受けたことは後で知ったけれど、彼には何の感慨も与えなかった。ただ最愛の家族を永遠に失った絶望だけが彼を支配していた。彼は思った。いっそうのこと、自分も殺してくれたらよかったのに。
やがて宗平は退院した。その後の彼を待っていたのは、生き地獄のような日々だった。もし自分が恐怖に駆られず、すぐに走り出していたら彼女たちを救えたのかもしれない。今でも彼女たちは生きていたのかもしれない。そんな後悔と自責感が彼を襲った。
自分はなんて弱い人間なのだろう。家族を守ることもできない臆病な人間だったとは。こんな自分なんて生きている価値もない。憂鬱と絶望に苛まれて仕事に身が入らなかった宗平はすぐに退職してしまった。住んでいた自宅は、家族のことを思い出してつらくなるので引き払い、すべてを忘れるかのように持ちビルの空き部屋に引きこもった。そして、彼は気がつくと十年間を浪費していたのだった。
家族の葬式をしてから、宗平は黒いネクタイを外すことができなくなった。自分は家族を亡くした罪と孤独を忘れてはならない。その思いが彼をどこにも行かせないように縛り付けていた。そして彼は涼夏と出会って以来、その存在を忘れていた煙草を再び吸うようになっていた。自分の中にあったはずの虚無感を、涼夏と遥楓の存在が埋めてくれていたのだ。彼は最愛の家族を失って、初めてそのことを認識するようになった。よみがえった虚無感に耐えられなくなった彼は、気がつくと煙草を手にしていた。
最愛の家族を救うことのできなかった自分は、二度と希望を抱いてはいけない。自らの手で死ぬこともできない臆病な自分は、二度と幸せを求めてはいけない。そうして絶望と無感覚の中でこの十年間を生きてきた。そしてこれからも憂鬱に沈んだまま、この残酷な世界を生きていかなければならない。少女と出会うまで、彼はそう思い込んでいた。
そして宗平は今、少女のとなりでビルの屋上に佇んでいる。彼は家族の死を思い出して苦悶の表情を浮かべている。家族を失った悲しみと、彼女たちを救えなかった罪の意識が押し寄せる。立っているのがつらくなった彼はその場に座り込んでしまう。額には冷や汗を浮かべて、呼吸は荒くなっている。家族が血を流している場面がよみがえる。繰り返すフラッシュバックに彼は苦しんでいる。
ハルカはそんな彼の様子を見て、何も言うことができない。つらいことを思い出させてごめんなさい。その思いで先生の背中をさすろうとする。でも何かが彼女を押し留める。自分が先生に触れることは許されない。となりで先生を見ていることしかできない。
「ごめんなさい、先生」気がつくとハルカはつぶやいている。
「気にするな。君が謝る必要はない」そう言いながらも宗平の荒い呼吸は続いている。
自分のせいだとハルカは思う。浅はかにも先生に家族のことを教えてよと言った自分のことが恨めしい。少し考えれば分かったはずだ。そこは簡単に踏み込んではいけない領域だということを。そして自分には明らかにその資格がないということを。
「すまないが、少しだけ横にならせてくれ」宗平が言う。
ハルカは宗平がベンチまで這って行くのをただ見ていることしかできない。
本当はこういうときに先生の体を支えることができたらいいと思う。でも自分にはその資格がない。自分はそもそも先生と関わってはいけないはずなんだ。
ベンチに横になった宗平は過去の自分を思い出す。家族を失ってからの堕落した自分。毎朝、憂鬱とともに目覚め、虚無感をごまかすために煙草を吸い、黒いネクタイをしめて出口のない感傷にひたる。ただ機械的に栄養食品を口にして、鬱屈した気持ちを洗い流すためにシャワーを浴びる。何の生産性もない、ただ徒らに寿命を消費するだけの日々。
でも、それは少女と出会ってから少しずつ変わり始めていた。煙草を吸わなくなった。朝日に苦しむことがなくなった。食事に気を遣うようになった。黒いネクタイは外せないけれど、家族の死に囚われる時間は減ったような気がする。人生に再び希望を見出そうとしている自分がいる。それが果たして許されることなのかは分からない。でもこの少女といるときにふと笑顔になっていることがある。そんな自分に驚いてしまう。
一体、何が正解なのだろう。自分はこれからどのように生きるべきなのだろう。それはまだ分からない。でも、少なくとも言えることがある。自分はハルカを名乗るこの少女に感謝しなければならない。自分が忘れていたはずの笑顔を思い出させてくれた。そのことだけは許されてもいいのではないだろうか。宗平は心の中で家族に問いかける。




