第四章「なんて弱い人間なのだろう」④
五年後、遥楓は十歳になった。その年の五月一日、宗平たちは近くの公園に出かけた。遥楓はその公園で遊びまわるのが好きだった。気がつくと公園にいる子どもたちといつも仲良くなっていた。ひとりで寂しそうにしている子どもを見つけると、彼女はいつも声をかけた。宗平はよく遥楓から仲良くなった子を紹介された。楽しそうに話している子どもたちを見て、彼はつい笑顔になっておしゃべりに参加するのだった。
その日、遥楓たちに誘われて涼夏が鬼ごっこに加わっていた。涼夏はすばしっこく動きまわる子どもたちに手を焼きながらも、楽しそうに走り回っていた。彼女はもともと少年のようなところがあり、子どもの遊びにも手を抜かず、全力で楽しむ人だった。虫取りや川遊びに遥楓と一緒に夢中になった。そんな二人を見て、宗平はいつも微笑ましく思っていた。二人が楽しそうに笑っているのを見ている時間が、彼は何よりも幸せだった。それだけで彼は日常のあらゆる気がかりを忘れることができた。
宗平はベンチに座って、家族が他の子どもたちと遊んでいるのを眺めていた。春の陽気が気持ちのいい日だった。彼はうたた寝しそうになるのをこらえる必要があった。そこは穏やかな世界だった。あらゆるものが平和をなしているように見えた。こんな時間がこの先もずっと続けばいいのに。そう思わせるような幸せな空間が広がっていた。
しかし、ある瞬間に宗平は違和感を抱いた。穏やかな春の公園に似つかわしくない異臭が彼の鼻腔を刺激したのだった。最初は混乱してそれが何の臭いなのか分からなかった。でも、落ち着いて考えるとそれは明らかにアルコールの匂いだった。彼は目を開いて公園を見渡した。すると公園の入り口に薄汚れたジャージを着た中年の男が佇んでいた。手をポケットに入れた男の顔は黄色みがかっていて、一目でアルコール依存症だと分かった。
宗平は率直に不快感があった。アルコールにおぼれるのは個人の自由だけれど、閑静な住宅街にある子どもたちの公園に来るべきではない。その男は明らかに公園の雰囲気から浮いていた。周囲の人たちもその男のことを不快に思っているのは一目瞭然だった。頼むから早くこの公園から出ていって欲しい。宗平はそう思っていた。
でも、男の表情をよく見ると、自分が周囲から白い目を向けられていることに苛立ちを隠していなかった。どうして自分は世間から不当に排斥されなければいけないんだ。その不満が表情に出ていた。宗平はその瞬間、この男は危険かもしれないと思った。この男をあまり刺激しないようにする必要がある。彼はそう直感した。そのためには周囲の注目をこの男から別の対象に向けなければならない。彼はベンチから立ち上がると、子どもたちが遊んでいるところに近づいた。そして大きな声で呼びかけようと思った。
そこで宗平は目にした。男の腹部のあたりが一瞬だけきらめくのを。何かが日光を反射していた。宗平は目を細めて、そこにある何かを見極めようとした。そして彼は気づいてしまった。男がポケットにナイフを忍ばせていることを。その瞬間、宗平は叫んでいた。
「逃げろ! 男がナイフを持っているぞ!」
子どもたちは一目散に逃げ出した。涼夏も、遥楓を連れて必死に走った。しかし、遥楓は逃げる途中で転んでしまった。涼夏は遥楓を起き上がらせようとした。ナイフを持った男は逃げ遅れた二人に近づいていった。宗平は思った。このままだと涼夏たちがあの男に襲われてしまう。彼は涼夏と遥楓の元に駆け出そうとした。この命を賭しても彼女たちを守らなければならない。あの男に刺される覚悟で彼女たちをかばうのだ。
しかし、宗平は愕然とした。自分の足が震えて思うように動かないのだ。早くしないと最愛の家族があの男に刺されてしまう。彼女たちの盾となるべく駆けつけなければ。それなのに恐怖が邪魔をして、彼はしばらく足を前に踏み出せなかった。その間にもあの男は彼女たちに近づいている。今は人生で最大の勇気を振り絞らなければならない。ようやく宗平の足は動き出した。彼は前のめりになりながら、家族の元に駆け出した。彼女たちの目はすがるように救いを求めていた。彼女たちを絶対に助ける。宗平はそう決意した。
その瞬間、宗平は男と目が合った。その目は明らかに淀んでいた。世の中に対する深い絶望に満ちていた。そのことを宗平は直感した。この男には失うものなど何もないのだ。そのことを理解した瞬間、宗平の全身を戦慄が走った。鳥肌が一気に広がっていくような感覚があった。この男は本当に誰かを殺しかねない。そしてその誰かは自分の家族である可能性が高いのだ。宗平は自分の足に力を込めた。家族の元に早く追いつかなければ。
しかし、次の瞬間には宗平を絶望が襲っていた。男は宗平が走っているのを見た瞬間、自分も走り出したのだ。二人とも涼夏たちへの距離はあとわずかだった。でも、明らかに男の方が一足だけ近いところにいた。間に合わない。宗平はそう直感した。止まる訳にはいかないので宗平は走りつづけた。でも、いつの間にか彼は深い諦念に苛まれていた。
男は涼夏たちの元にたどり着いた。涼夏はその瞬間、遥楓に覆い被さった。そんな涼夏の背中を男は手にしたナイフで突き刺した。「うっ!」と苦しむ涼夏のうめき声が宗平の耳に届いた。宗平は一足遅く、転がり込むように涼夏の足元にすがりついた。男は宗平の肩をナイフで突き刺した。宗平の体に激痛が走った。彼は思わず「あぁ!」と声を上げていた。男は遥楓に覆い被さっている涼夏の体を引き剥がした。宗平はそれを阻止する力がなかった。露わになった遥楓の小さな胸に、男はナイフを突き刺した。




