第四章「なんて弱い人間なのだろう」①
結婚した翌年の四月二十二日、宗平は産科病棟のソファで落ち着かない時間を過ごしていた。今まさに涼夏が女の子を出産しようというところだった。彼は自分の無力さを痛感していた。最愛の妻が命を賭して出産に臨んでいるというのに、自分は何もしてやることができない。両手を組んで母子の無事を祈ることしかできなかった。
入院前に陣痛が来て、涼夏が苦しんでいるときの自分は本当に情けなかった。頭の中で予行演習はしていたはずなのに、いざそのときが来るとパニックになった。不安が強くてうろたえてしまい、苦しんでいるはずの涼夏に落ち着いてと言われてしまう始末だった。普段は理性的な自分を誇らしく思っているのに、肝心なときに自分は役に立たない。
何とか病院に連絡してタクシーで送り届けたあとは、病院のスタッフが慌ただしく動き回っているのをただ見ているだけだった。自分は夫としてなんて情けないのだろう。宗平は自分のことを恥じていた。落ち込んでいる宗平を見て、涼夏は大丈夫だよと声をかけてくれた。本当は自分の方が声をかけて、妻を励まさなければならないのに。出産を控えて病室から出された宗平は、無事に終わるのをただ待つことしかできなかった。
やがて病室から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。宗平はひとまず子どもだけでも元気なことを知って、全身から力が抜けるくらいホッとした。同時に涙が浮かんでくるのを自覚した。自分は今、幸せの真っ只中にいる。そのことを思うと深い感慨が押し寄せた。でもまだ油断することはできない。涼夏が無事でなければ意味がない。宗平はソファに座って妻の無事を必死に祈っていた。妻が再び笑顔を見せてくれることを願っていた。
しばらくして宗平は病室に呼び込まれた。ベッドには疲労困憊ながらも穏やかな笑顔を見せる涼夏のとなりで、生まれたばかりの赤ん坊がすやすやと眠っていた。宗平はそこで自分たちが子どもを授かった奇跡と、母親である涼夏の無事に涙を流した。それは人生でいちばん安心した瞬間であり、また人生でいちばん幸せを感じた瞬間だった。
「涼夏が無事でよかった。赤ちゃんが元気そうで本当によかった」
「そばにいてくれてありがとう。おかげで元気な赤ちゃんが生まれたよ」
「すまない。僕は夫でありながら何もできなかった。自分のことが情けない」
「そんなことないよ。宗平が近くにいてくれると思うだけで頑張れたんだから」
そう言って涼夏は笑ってくれた。彼女の瞳にも幸せの涙が浮かんでいた。宗平は二人を抱きしめたくなるのを必死でこらえていた。
出産後の母児の経過は良好だった。数日後に涼夏は子どもを連れて退院した。病室まで迎えに行った宗平は、穏やかな笑顔の涼夏と、彼女の腕に抱かれながら気持ち良さそうに眠っている子どもを見て、そこに奇跡が体現されているような気がした。自分は彼女たちと一緒に幸せになるのだ。彼はその決意を固くしていた。
春の陽気を浴びながら、三人は病院の敷地を散歩した。桜はすでに散っていたけれど、代わりに瑞々しい新緑が芽吹いていた。それはまるで新しい生命の誕生を祝っているようだった。宗平は感慨にふけりながら言った。
「これから僕たちの新しい人生が始まるんだね。なんだかワクワクするよ」
「そうだね。今までつらいこともたくさんあったけれど、その分だけこの子と一緒に幸せになるんだから。これからも末長くよろしくお願いします」涼夏は頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします。ねえ、この子の名前をどうしようか?」
「実は、私にはもう付けたい名前が決まっているんだ。宗平はどんな名前がいい?」
「僕は迷っているんだ。名前に込めたい願いが多すぎるんだよ」宗平は頭をかいた。
「だったら、どんな願いも込められるような広がりのある名前にしようよ。私が付けたい名前はね、ハルカっていうの。無限の可能性や自由を謳歌してほしいなと思って」
「ハルカか。とても良い名前だね。漢字はどうするの?」宗平は尋ねた。
「最初は一文字で遥か彼方の遥にしようと思ったんだけど、それだと苗字との組み合わせが名前の運勢としてあまり良くないみたいなの。だから他の漢字を足してハルカにしようと思うんだけど、何か良い字はないかな?」涼夏は首を傾げた。
「それなら楓はどうかな? カエデに込められた意味は美しさ、調和、たくましさ。自由と可能性だけじゃなくて、強さと優しさを兼ね備えた人になってほしいと思うんだ」
「遥かな楓と書いて遥楓か。素敵な名前だね。この子にはすくすくと元気に育ってほしいんだ。そして勇気と思いやりを持った人になってほしいな」涼夏は遥楓の顔を見つめる。
「実は、今まで我慢していたことがあるんだ。二人のことを抱きしめたい」
「いいよ、おいで。病室ではできなかったもんね。私もみんなでくっつきたいな」
そして遥楓をあいだに宗平と涼夏はそっと抱きしめ合った。宗平は二人の体温を感じていた。そこには確かに生命の躍動があった。これから彼女たちと一緒に生きていくんだ。自分が彼女たちを守っていくんだ。その責任と幸福を心から実感していた。
「ねえ、私はとっても幸せだよ。私と一緒になってくれて本当にありがとう」
涼夏は幸せそうに言った。その笑顔を一生、忘れないだろうと宗平は思った。




