第三章「これが本当の初恋なのかもしれない」⑤
涼夏が二十六歳の誕生日を迎えたある年の七月二十日。
「ねえ、私たちにとって大切な話があるの」涼夏はそう切り出した。
宗平は朝、起きたばかりだった。意識はまだぼんやりとしていたけれど、彼女の真面目な表情を見て、何かとても重大な事態が持ち上がっていることを悟った。彼は両手で顔を叩いて目を覚ました。そして後ろ手に組んで立っている彼女の前で正座をした。二人ともTシャツにショートパンツというラフな格好をしていた。けれど、部屋の中には息をのむような緊張感が漂っていた。
「大切な話って、何なの?」宗平はおそるおそる尋ねてみた。
別れ話を切り出されるのではないかと思った彼は、心臓の鼓動がドキドキと脈を打っているのを感じた。手汗をかいて、口の中はカラカラに乾いていた。思えば、自分には拙いところがたくさんあった。整理整頓ができない、頭が堅くて気を遣えない自分は、別れを切り出されても仕方がないと思った。
「実はね、赤ちゃんができたの」涼夏はそこで陽性の妊娠検査薬を差し出した。
彼女は不安そうな表情をしていた。宗平は予想外の出来事を前にして呆気にとられた。妊娠した? 別れ話ではなくて? まずは冷静にその事実を受け止めようとした。
頭の中で状況を理解すると、次第に彼の頬は緩んだ。真面目な表情を保とうとしても、笑顔になるのを止めることができなかった。自分たちに赤ちゃんができた。その事実は、父親になる責任感と一緒に新しい人生の喜びをもたらした。彼は思わず叫んでいた。
「やった! 子供が産まれる、僕がお父さんになる。こんな嬉しいことはないよ!」
涼夏は安心したような笑顔になった。大きな瞳に涙を浮かべて言った。
「そうなの、子供ができたんだよ。私たち、家族になるんだよ!」
二人は喜びのハイタッチをした。そして力強く抱きしめ合った。気がつくと二人は頬に涙を流していた。今までつらいこともたくさんあったけれど、生きていてよかった。宗平はそう実感していた。涼夏は泣きながら言った。
「生きていてよかった。今まで人生を諦めないで本当に良かった」
「涼夏、今日の夜は二人でデートをしよう!」宗平はスーツに着替えるとそう言った。
「うん、わかった。楽しみにしているね」涼夏は瞳を潤ませていた。
その日は水曜日だったので、二人は仕事に出かけた。涼夏は普段のTシャツとジーンズではなく、今夜のデートに合わせて水色のワンピースを着ていた。首元にはネックレスをつけ、普段は薄いメイクもばっちりと仕上げていた。
宗平は仕事をしているあいだもソワソワが止まらなかった。二人は前年の春、京都から東京に引っ越したのをきっかけに同棲をはじめていた。宗平は茨城の大学で、講師として天文学の研究をつづけていた。涼夏は都内の病院で研修医をしていた。
夜になると二人はお台場のレストランで待ち合わせた。宗平は先に着いたので店の前で待っていた。まもなく涼夏が現れた。彼女は軽やかな足どりでやって来て、満面の笑顔を浮かべていた。そんな彼女の姿はあまりにも眩しくて、宗平は初めて涼夏を目にしたときのことを思い出した。彼は初恋のような胸の高まりを感じていた。
「じゃあ、さっそく食事にしようか」宗平は言った。
「うん。今日はありがとう。仕事中もずっと楽しみにしていたんだ」
涼夏は頬を赤くしていた。その店はイタリアンレストランで、テラス席からはお台場の夜景を一望することができた。海の向こうのレインボーブリッジが輝いていた。
二人はイタリアンのコース料理を味わった。涼夏はずっと楽しそうに笑っていた。
「とってもおいしいね! こんな料理、普段は食べられないもんね」
「確かにおいしい。でも、僕は涼夏の作ってくれる料理が大好きなんだ」
「ありがとう。そう言ってくれると、私は作りがいがあるよ」
宗平は不器用なので料理ができなかった。だから食事はいつも涼夏に頼っていた。彼はそのことにいつも申し訳なさがあった。でも、彼女はいつも言ってくれた。
「宗平がおいしそうに食べているのを見ると、作ってよかったと思うんだよね」
コース料理のデザートとコーヒーを済ませると、宗平は決意するように言った。
「これからちょっと移動しようか。そこで言いたいことがあるんだ」
「わかった。そうする」涼夏は恥ずかしそうにうつむいていた。
二人が移動したのはお台場の海浜公園だった。海沿いのベンチにはたくさんのカップルが並んでいた。宗平は人が少ないところを探して、海の向こうの夜景を見つめた。涼夏はそのとなりに何も言わずに並んだ。二人はどちらからともなく手を繋いだ。
「とてもきれいな夜景だね」宗平は言った。
「そうだね。ここに来れてよかった」涼夏は静かに応えた。
「長塚涼夏さん。あなたに言いたいことがあります。僕らにとって大切なことです」
宗平は緊張した面持ちでそう言うと、涼夏に顔を向けた。涼夏は宗平の目を見つめた。
「僕と、結婚してください。よろしくお願いします」宗平はそこで頭を下げた。
しばらく静かな時間が流れたあとで、涼夏は口を開いた。その声は震えていた。
「山本宗平さん。こちらこそ、よろしくお願いします」涼夏の頬には涙が流れていた。
それから涼夏は思いっきり宗平に抱きついた。その胸の中で彼女は泣いていた。
「ありがとう。私、とても幸せだよ。いつまでも、家族みんなで仲良くいようね」
「うん。そうしよう。一緒に幸せな家族を築いていこう」宗平の目も涙で潤んでいた。
そして二人は結婚した。プロポーズは涼夏の二十六歳の誕生日である七月二十日だったので、入籍の日は宗平の三十歳の誕生日である九月二十日にした。その日は火曜日なので仕事があったけれど、夜になって二人は役所に行った。婚姻届に二人の名前が書いてあるのを見て、宗平は自分たちが結婚することを実感した。涼夏は婚姻届を見ながら言った。
「私たちついに結婚するんだね。私の名前が山本涼夏になるんだよね。なんだか不思議な気持ちだな。自分が幸せになることをうまく信じられないの」
「僕が涼夏のことを幸せにするよ。だから信じてもいい」宗平はそこに決意を込めた。
「私ね、ご存知のように両親がいないの。お母さんはシングルマザーだったけれど、心を病んで自殺した。父親はどこの誰かもわからない。だからこれまでおばあちゃんが育ててくれた。でも、妹はお母さんに似て心が弱かった。死のうとしたこともあった。私だって本当はすぐに落ち込んでしまう。だから幸せにはなれないと思っていたの」
宗平は黙ってそれを聞いていた。涼夏が家族のことで負い目を持っているのは以前から知っていた。婚姻届の証人を彼女の祖母に頼むとき、涼夏は家族のことを教えてくれた。彼女の祖父は、母親が生まれてまもなく交通事故で死亡していた。自分は不幸な遺伝子を持っている。おばあちゃんだってこれまでとても苦労してきた。だから自分は幸せになることができないと思っていた。そのときも彼女はそう語っていた。
「でも、宗平と出会ってそれは変わったの。私だって幸せになれるのかもしれない。宗平はそう思わせてくれた。だから私は宗平と出会うことができて嬉しいんだ。ありがとう。私をあなたの奥さんにしてくれて。ねえ、宗平。これからも、ずっと一緒にいてね」
涼夏は潤んだ瞳で宗平を見つめていた。
「もちろん。僕はずっと一緒にいるよ。涼夏のことを絶対に離さない。僕の孤独を救ってくれたのは涼夏だからね。僕にとっても、君は人生に欠かせない存在なんだ」
宗平は子供の頃からずっと友達がいなかった。宇宙に夢中だったから、それまで孤独を感じることはなかったけれど、涼夏と楽しい日々を過ごしていると、宗平は実感することになった。自分はずっと一緒にいてくれる誰かを求めていたんだ。二人は手を繋いだまま婚姻届を提出した。これからは幸せな日々が待っている。彼はそう信じていた。




