9.チェス
それからというもの、ジークフリートは毎週のように湖畔の貸別荘へ足を運ぶようになった。
仕事が一段落した夜。
暖炉に火を入れ、オデットを迎える。
いつしかそれが、一週間の終わりを告げる習慣になっていた。
ある日は、静かに施術を受けながら仕事の疲れを癒やす。
またある日は、施術を早めに切り上げ、暖炉の前でハーブティーを飲みながら他愛のない話に花を咲かせた。
街で見つけた珍しい菓子の話。
今年は湖畔のコブハクチョウが雛を多く産んだという噂。
美味しい茶葉の淹れ方。
肩の力を抜く呼吸法。
どれも些細な話ばかりだった。
それでも、不思議と時間はあっという間に過ぎていく。
ジークフリートは思う。
仕事では一刻が長く感じるのに、この時間だけはどうしてこんなにも短いのだろう、と。
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「またオデットの指名ですか。」
店の支配人は予約帳を閉じ、小さく笑った。
「ええ。」
受付係も頷く。
「ジークフリート様、最近は他の施術師をご希望されませんね。」
「ありがたいお客様だ。」
支配人はそう言うと、一枚の帳面を取り出した。
上客のご利用の記録をまとめた報告書だった。
その日の営業が終わると、支配人は馬車へ乗り込み、街外れに建つ屋敷へ向かう。
重厚な扉の向こうで待っていたのは、一人の男。
「ロットバルト様。」
支配人は深く頭を下げた。
「例のご子息ですが、ここ数か月、毎週"オデット"を指名しております。」
ロットバルトは静かに報告書へ目を通す。
「ほう。」
「施術だけの日もありますが、滞在時間は長く、会話を楽しまれているご様子です。」
ロットバルトは口元だけで笑った。
「なるほど。」
報告書を机へ置く。
窓の外では、夜風に木々が揺れていた。
「人は、心を許した相手のためなら、普段では考えられない決断をする。」
主人は意味を測りかね、黙って耳を傾ける。
ロットバルトは椅子にもたれ、指先で机を軽く叩いた。
「面白い駒が育ったものだ。」
その笑みは穏やかだった。
だが、その瞳だけは冷たく澄み切っている。
まるで、次の一手を思いついたチェスの名手のように。
支配人は何も尋ねなかった。
尋ねても、教えてはもらえないことを知っていたからだ。
部屋には、静かな笑い声だけが長く残っていた。
コブハクチョウは渡りをしない留鳥で、4月に産卵、5月に孵化します。




