8.靴
一週間後。
"オデット"になったアンナは再び湖畔の貸別荘の扉を叩いた。
重厚な扉が開くと、ジークフリートは前回よりもずっと柔らかな笑顔を浮かべていた。
「オデット、待っていたよ。」
「こんばんは。本日もお招きいただき、ありがとうございます。」
軽く一礼を交わす。
前回のような初対面のぎこちなさは、もうなかった。
「今日は最初に伝えたいことがあるんだ。」
「私に、ですか?」
「君に教えてもらった靴職人の工房へ行ってきた。」
オデットは目を丸くした。
「まあ、本当に?」
「正確には、君が話してくれた"シューマイスター"を探してもらったんだ。」
二人は居間へ入り、穏やかな空気の中で支度を整える。
「最初は半信半疑だった。」
ジークフリートは苦笑した。
「靴が変わるだけで何が違うんだ、と。」
「はい。」
「でも、履いてみた瞬間に驚いた。」
その表情には、少年のような素直な感動が浮かんでいる。
「背筋が自然と伸びて、姿勢を保つのが楽になったんだ!」
「まあ!」
オデットも顔をほころばせる。
「そして一日中歩いてみたけれど、夕方になっても脚が重くならなかった。」
オデットは微笑んだ。
「それは何よりでございました。」
「石畳を歩くのが楽しいと思ったのは初めてかもしれない。」
「足元が身体に合うだけで、姿勢も歩き方も変わることがありますから。」
「もっと早く知りたかった。」
ジークフリートは少し照れくさそうに笑う。
「君のおかげだ。」
その一言に、オデットは胸の奥がわずかに温かくなるのを感じた。
「私は、お客様から伺ったお話をお伝えしただけです。」
「それでも、あの日君が話してくれなかったら、探そうとも思わなかった。」
支度を終え、ジークフリートがタオルを敷き詰めたベッドに横たわる。
暖炉には火が入り、今日もラベンダーの香りが静かに広がっていた。
「ところで。」
オデットが施術をしながら穏やかな声で尋ねる。
「どちらの靴工房へ行かれたのですか?」
「確か……。」
ジークフリートは記憶をたどる。
「『靴工房 ヌレエフ』という名前だった。」
オデットの指先が、ほんのわずかに止まる。
ヌレエフ。
かつて父の工房で十年以上修業し、独立していった弟子の名だった。
――親方。
いつも父をそう呼び、誰よりも熱心に靴作りを学んでいた青年。
胸の奥に、懐かしい工房の風景がよみがえる。
「オデット?」
ジークフリートが不思議そうに振り返る。
オデットはすぐに微笑みを取り戻した。
「申し訳ありません。少し考え事をしてしまいました。」
「何か気になることでも?」
「いいえ。」
静かに首を横へ振る。
「その職人さんは、とても腕の良い方なのだと思います。」
「ああ。」
ジークフリートは深く頷いた。
「靴を売るだけじゃなかった。」
「?」
「僕の歩き方を見て、立ち方を見て、指先から踵まで丁寧に測ってくれた。」
「……。」
「あれこそ、本当の職人なんだと思った。」
その言葉に、オデットは思わず目を伏せる。
父が大切にしていた仕事。
弟子が受け継いでくれた仕事。
それを、目の前の青年が心から評価してくれている。
「ありがとうございます。」
ジークフリートが目を開く。
「え?」
ほんの短い沈黙が流れる。
「……その職人さんに代わって、お礼を申し上げたくなってしまいました。」
ジークフリートは不思議そうに笑ったが、それ以上は尋ねなかった。
ラベンダーの香りが静かに漂う部屋で、二人の穏やかな時間は、ゆっくりと流れていった。




