表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/18

7.家

夕暮れの鐘が鳴る。


「今日はここまでだ。」


親方が裁ち鋏を机へ置いた。


「お疲れ様でした!」


見習いたちが一斉に頭を下げる。


アンナも作業台を片付けると、仕事着の埃を払い、店の外へ出た。


「また明日ね、アンナ。」


「お疲れさまでした。」


女将さんが優しく見送る。


この店で、アンナの夜の仕事を知るのはマイヤだけだった。


マイヤ以外は皆、アンナが仕立て一本で生活していると思っている。


店を離れると、街の賑わいは少しずつ夜の顔へ変わっていく。


アンナは人気の少ない裏通りを抜け、一軒の建物へ入った。


表札には小さく、


『施療院 シュヴァン』


とだけ書かれている。


店内では男性の受付係が帳面をめくっていた。


「ああ、"オデット"さん。」


「今夜もよろしくお願いいたします。」


受付係が心苦しそうに言う。


「申し訳ありません。今夜のお約束ですが、お客様のご都合で取り消しとなりました。」


アンナは一瞬だけ驚いたものの、すぐに微笑んだ。


「そうでしたか。」


「急なお知らせになってしまい、申し訳ありません。」


「いいえ。」


帳面へ取り消しの二重線が引かれる。


その音だけが、静かな帳場に響いた。


「今夜はもうお帰りいただいて構いません。」


「かしこまりました。」


帳場を出ると、まだ空には夕焼けが残っていた。


いつもなら、これから化粧をし、お客様指定の屋敷へ向かう時間。


こんな明るいうちに帰るのは久しぶりだった。


−−−−−−−−−−−−−−−


「ただいま。」


扉を開けると、母が驚いたように振り返る。


「あら、アンナ? 今日は早いのね。」


「仕立て屋のお仕事が早く終わったの。」


自然に口をついて出る、いつもの言葉。


母は、アンナの夜の仕事のことは知らない。


いつも仕立て屋で遅くまで働いているのだと信じている。


「ちょうどよかったわ。今日はお父さんが帰ってきてるの。」


「お父さんが?」


居間では父が煤で黒く汚れた作業着のまま椅子に座っていた。


工房を畳み、炭鉱で働くようになってから、一か月に一度しか帰れない。


以前より痩せた背中を見て、アンナは胸が締めつけられる。


「おかえり、アンナ。」


「おかえりなさい、お父さん。」


父は照れくさそうに笑うと、小さな革袋を母へ差し出した。


「今月の分だ。」


母は両手で受け取り、大切そうに抱える。


「ありがとう。本当に助かるわ。」


父はほっとしたように笑った。


その笑顔を見るたび、アンナは何も言えなくなる。


返済は、それだけでは足りない。


不足分はアンナが埋めていることを、父は知らない。


知らせてはいけない。


それが母と二人だけの秘密だった。


そして母も、その金を夜の仕事で得たものだとは知らない。


「お姉ちゃん!」


妹が駆け寄ってくる。


無邪気な笑顔は、子どもの頃から何一つ変わらない。


妹がアンナの胸元を指差す。


「そのブローチ、すっごく可愛い!」


白鳥の羽を模した、小さな銀細工。


店で試作品として作られたものを、親方から「感想を聞かせてくれ」と預かっているものだった。


「それ、欲しい!」


アンナは困ったように微笑む。


「ごめんね。これはお店のものなの。」


「えー。」


妹は頬を膨らませる。


「でも似合うんだもん。少しだけ着けさせて?」


母が静かにアンナを見る。


何も言わない。


けれど、その視線だけで十分だった。


アンナは胸元からブローチを外す。


「少しだけよ。」


「やったぁ!」


妹は満面の笑みで受け取り、鏡の前へ駆けていく。


「どう? 似合う?」


その姿を見て、父も母も笑っていた。


アンナも笑う。


誰も悲しまないように。


誰も困らないように。


その笑顔だけは、幼い頃からずっと変わらなかった。


挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ