7.家
夕暮れの鐘が鳴る。
「今日はここまでだ。」
親方が裁ち鋏を机へ置いた。
「お疲れ様でした!」
見習いたちが一斉に頭を下げる。
アンナも作業台を片付けると、仕事着の埃を払い、店の外へ出た。
「また明日ね、アンナ。」
「お疲れさまでした。」
女将さんが優しく見送る。
この店で、アンナの夜の仕事を知るのはマイヤだけだった。
マイヤ以外は皆、アンナが仕立て一本で生活していると思っている。
店を離れると、街の賑わいは少しずつ夜の顔へ変わっていく。
アンナは人気の少ない裏通りを抜け、一軒の建物へ入った。
表札には小さく、
『施療院 シュヴァン』
とだけ書かれている。
店内では男性の受付係が帳面をめくっていた。
「ああ、"オデット"さん。」
「今夜もよろしくお願いいたします。」
受付係が心苦しそうに言う。
「申し訳ありません。今夜のお約束ですが、お客様のご都合で取り消しとなりました。」
アンナは一瞬だけ驚いたものの、すぐに微笑んだ。
「そうでしたか。」
「急なお知らせになってしまい、申し訳ありません。」
「いいえ。」
帳面へ取り消しの二重線が引かれる。
その音だけが、静かな帳場に響いた。
「今夜はもうお帰りいただいて構いません。」
「かしこまりました。」
帳場を出ると、まだ空には夕焼けが残っていた。
いつもなら、これから化粧をし、お客様指定の屋敷へ向かう時間。
こんな明るいうちに帰るのは久しぶりだった。
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「ただいま。」
扉を開けると、母が驚いたように振り返る。
「あら、アンナ? 今日は早いのね。」
「仕立て屋のお仕事が早く終わったの。」
自然に口をついて出る、いつもの言葉。
母は、アンナの夜の仕事のことは知らない。
いつも仕立て屋で遅くまで働いているのだと信じている。
「ちょうどよかったわ。今日はお父さんが帰ってきてるの。」
「お父さんが?」
居間では父が煤で黒く汚れた作業着のまま椅子に座っていた。
工房を畳み、炭鉱で働くようになってから、一か月に一度しか帰れない。
以前より痩せた背中を見て、アンナは胸が締めつけられる。
「おかえり、アンナ。」
「おかえりなさい、お父さん。」
父は照れくさそうに笑うと、小さな革袋を母へ差し出した。
「今月の分だ。」
母は両手で受け取り、大切そうに抱える。
「ありがとう。本当に助かるわ。」
父はほっとしたように笑った。
その笑顔を見るたび、アンナは何も言えなくなる。
返済は、それだけでは足りない。
不足分はアンナが埋めていることを、父は知らない。
知らせてはいけない。
それが母と二人だけの秘密だった。
そして母も、その金を夜の仕事で得たものだとは知らない。
「お姉ちゃん!」
妹が駆け寄ってくる。
無邪気な笑顔は、子どもの頃から何一つ変わらない。
妹がアンナの胸元を指差す。
「そのブローチ、すっごく可愛い!」
白鳥の羽を模した、小さな銀細工。
店で試作品として作られたものを、親方から「感想を聞かせてくれ」と預かっているものだった。
「それ、欲しい!」
アンナは困ったように微笑む。
「ごめんね。これはお店のものなの。」
「えー。」
妹は頬を膨らませる。
「でも似合うんだもん。少しだけ着けさせて?」
母が静かにアンナを見る。
何も言わない。
けれど、その視線だけで十分だった。
アンナは胸元からブローチを外す。
「少しだけよ。」
「やったぁ!」
妹は満面の笑みで受け取り、鏡の前へ駆けていく。
「どう? 似合う?」
その姿を見て、父も母も笑っていた。
アンナも笑う。
誰も悲しまないように。
誰も困らないように。
その笑顔だけは、幼い頃からずっと変わらなかった。




