5.針と糸
カラン、カラン。
真鍮の鈴が軽やかな音を立てる。
『魅了の魔法不使用 ナーデル・ウント・ファーデン 仕立て屋チャイコフスキー』
朝の陽射しを受けた店内には、色とりどりの布地が並び、壁には採寸用の布尺や型紙が整然と掛けられていた。
「おはようございます!」
一人の少女が元気よく店へ飛び込んでくる。
「おはよう、マイヤ。」
奥から返事をしたのは、黒髪を後ろでまとめたアンナだった。
昨夜、"オデット"として貸別荘へ向かった女性と同一人物とは思えないほど、飾り気のない仕事着姿だった。
頬に化粧はなく、髪も実用本位に結われている。
「アンナ、昨日は遅かったの?」
マイヤが小声で尋ねる。
「少しだけね。」
アンナは穏やかに微笑んだ。
「おはようございます。」
続いてスヴェトラーナ、そして少し寝癖の残ったウリヤーナも姿を見せる。
「お、おはよう……。」
「また寝坊しかけたの?」
「ち、違うって!」
店内に笑い声が広がった。
「朝から賑やかだな。」
工房の奥から、低く落ち着いた声が響く。
大柄で髭を蓄えた店主だった。
腕には年季の入った革の腕当て、腰には大きな裁ち鋏。
一見すると近寄り難い職人気質そのものだ。
だが、その目元にはどこか穏やかな笑みが宿っている。
「親方、おはようございます。」
四人が頭を下げる。
「今日は店先へ飾る白いドレスを仕上げるぞ。」
そう言って机へ広げた型紙には、幾重にも重なる羽根を思わせる意匠が描かれていた。
「親方らしくないですね。」
マイヤが笑う。
「こんな可愛い飾り、好きなんですか?」
「悪いか。」
ぶっきらぼうに返しながらも、口元だけは少し緩む。
「近頃の若い娘さんは、こういうのが好きなんだよ。」
「やっぱり。」
「親方、意外と乙女趣味。」
ウリヤーナの一言に、店内がまた笑いに包まれる。
その様子を見ていた店主は、小さく肩をすくめた。
「勘違いするな。」
静かに針を持ち上げる。
「仕立て屋は芸術家じゃねぇ。」
四人の見習いが手を止める。
「お客様のお求めになるものを作る。それが俺達の誇りだ。」
その言葉だけは、事あるごとに聞かされてきた。
けれど誰一人として聞き流したことはなかった。
「はい!」
四人の返事が重なる。
その頃、店先では親方の妻が婦人客へ布地を勧めていた。
「こちらのお色も、お嬢様によくお似合いになりますよ。」
柔らかな物腰と細やかな気配り。
店の表は妻が支え、工房は夫が支える。
それが仕立て屋チャイコフスキーの日常だった。
アンナは裁断台の前へ立ち、一枚の白い布をそっと撫でる。
布は嘘をつかない。
針も糸も、裏切らない。
手をかけた分だけ、美しく応えてくれる。
だから、この時間が好きだった。
誰かのために一着を仕立てる、そのひと針ひと針が、自分自身の心まで縫い合わせてくれるような気がした。
"布尺"は、まだ巻き尺がない頃に、長さを測る為に使われていた布です。




