3.施術
隣室で身支度を整えたオデットが寝室へ戻ると、濃紺の絹のガウン姿のジークフリートは寝台に腰掛けて待っていた。
暖炉の火が静かに揺れ、ラベンダーの香りが部屋いっぱいに広がっている。
ガウンを脱ぎ、寝台にうつ伏せになるよう促すと、大判の柔らかな亜麻布を静かに腰から下へ掛けた
「それでは、始めさせていただきます。」
掌で温めた香油を両手になじませる。
「力加減はいかがでしょうか。」
「ちょうどいい。」
肩から背中へ、ゆっくりと呼吸に合わせるように手を動かしていく。
最初は硬く強張っていた筋肉が、少しずつ力を抜いていくのが掌越しに伝わってきた。
「お忙しいのですか。」
「そうだね。父の商いを手伝っているんだ。」
「よろしければ、どのようなお仕事か伺っても?」
「父の仕事は扱うものが多くてね。商談も倉庫も、何でも覚えなきゃならない。まだ見習いみたいなものだけど。」
自嘲気味に笑う声が返ってくる。
「父は何でも一人で決めてしまう人だから。」
オデットは相槌を打ちながら、肩甲骨の周りをゆっくりほぐしていく。
「責任のあるお立場なのですね。」
「責任ばかり増えて、自分が何をしたいのか分からなくなる時もある。」
その言葉に、オデットの手がほんの一瞬だけ止まりそうになった。
けれど、すぐにいつもの調子へ戻る。
「お疲れが溜まるのも無理はありませんね。」
首筋へ移ると、ジークフリートは小さく息を吐いた。
「そこは気持ちいい。」
「かなり張っています。帳簿をご覧になることも多いのではありませんか。」
「よく分かったね。」
「皆さま、それぞれお疲れの出方に癖がありますので。」
首から腕へ。背中から腰へ。
無駄のない手つきで施術を続けていく。
やがて脚へ移ると、オデットは右脚の脛に触れたところで首をかしげた。
「……こちらは少し硬くなっていますね。」
「分かるものなの?」
「はい。左右で張り方が違います。」
指先で確かめるように触れながら続ける。
「歩き方や履物が影響することもございます。」
「改善する方法はある?」
「以前、お見えになったお客様で、同じような張りが続いていた方がおりました。」
「それで?」
「評判の"シューマイスター"に足を見ていただき、お靴を足に合わせて誂え直したそうです。次にお会いした折には、『見違えるほど歩きやすくなった』と仰っていました。」
「そんなに変わるものなんだ。」
「足元は毎日の積み重ねですから。」
ジークフリートは感心したように笑う。
「君はいろいろ知っているね。」
「お客様から教えていただくことばかりです。」
しばらく静かな時間が流れた。
暖炉の薪が小さく弾ける。
窓の外では風が木々を揺らしていた。
オデットは手を止めることなく、小さく微笑む。
そして、ふとジークフリートの耳元に顔を近づけると、穏やかな声で囁いた。
「湖畔の白鳥は……つがいになると、生涯ずっと寄り添って暮らすそうですよ。」
その一言は、暖炉の火に溶けるように静かだった。
ジークフリートは目を閉じたまま、小さく「そうなんだ」とだけ答える。
それ以上、言葉は続かなかった。
部屋にはラベンダーの香りと、穏やかな静寂だけが満ちていた。
その夜の施術は、ゆっくりと、何事もなかったかのように続いていった。
"シューマイスター"は、この物語上の架空の職業名です。現実にある"シューフィッター"という職業をモチーフにしています。




