16.ジャスミン
劇場からの帰り道。
馬車はそのままロットバルト邸の前でゆっくりと止まった。
御者が扉を開く。
「お送りいただき、ありがとうございました。」
オディールは微笑み、馬車から降りる。
「今日は楽しかったです。」
「こちらこそ。」
ジークフリートも続いて降りた。
「それでは――。」
帰ろうと踵を返しかけた、その時だった。
「……あの。」
オディールが遠慮がちに声を掛ける。
ジークフリートは振り返る。
「もう少しだけ、お話しませんか。」
少し寂しそうな笑顔だった。
「せっかくですし。」
その表情を見てしまうと、断る理由は見つからなかった。
「もちろん。」
二人は並んで屋敷へ入る。
−−−−−−−−−−−−−
広い屋敷は静まり返っていた。
使用人が一礼する。
「お嬢様、お帰りなさいませ。ジークフリート様、ようこそお越しくださいました。」
「お父様は?」
「本日は、深夜を過ぎるご帰宅になるとのことです。」
「そう。」
オディールは少し安心したように頷く。
「では応接間を使わせていただくわ。」
−−−−−−−−−−−−−
薄暗い応接間には暖炉だけが火を灯していた。
オディールは棚を開け、小さな箱を取り出す。
「香を焚きませんか。」
「いいね。」
箱の中には二種類の精油が入っていた。
ラベンダー、ジャスミン。
「どちらがお好みですか?」
「君が決めてくれて構わない。」
オディールは微笑む。
香炉へ火を入れると、甘く濃厚な香りが部屋いっぱいに広がっていく。
(ラベンダーじゃないんだな。)
そんな些細なことが、なぜか心に引っかかる。
二人は暖炉の前の長椅子へ腰掛けた。
昼食の話、劇場でみた舞台の話、仕立て屋の話。
他愛もない会話が続く。
ジークフリートはふと首を回した。
オディールが立ち上がる。
「今日のお礼です。」
「え?」
オディールの手が肩へ触れ、ゆっくりと揉み始める。
断る理由もなく、ジークフリートは笑った。
「それじゃあ、お願いしようかな。」
ジークフリートは深呼吸した。
以前オデットに教えられたとおりに。
けれど――。
(……違う。)
力加減は悪くない。
痛くもない。
だが胸の奥で、小さな違和感が芽生えた。
指が肩の張りを探していない。
どこも同じような手つきで、力の入れ方に抑揚がない。
以前、オデットは体に触れただけで疲れを言い当てた。
呼吸に合わせて、自然と力が抜けていった。
今は違う。
技術ではなく、形だけをなぞっているようだった。
オディールは笑顔で尋ねる。
「いかがですか?」
「⋯⋯あ、ああ、気持ちいいよ」
静かに目を閉じる。
(この人は。本当に、オデットなのか……?)
誘惑するような、濃厚で甘い香りが静かに漂う部屋で、小さな疑問が確かな違和感へと変わり始めていた。
ジャスミンの花言葉は、「愛らしさ」「優美」「官能」などだそうです。




