第三話 異世界、最初のお客様
第三話 異世界、最初のお客様
転んだ拍子に髪が顔を覆い、泥だらけになった傷口。
あの髪さえ短ければ。
そう思わずにはいられなかった。
そのとき、少年がこちらを振り返る。
俺の腰に下がる革のシザーケースへ目を留めた。
「それ……何だ?」
もちろん言葉は分からない。
だが、視線で分かった。
俺はゆっくりとシザーケースを開き、一丁のハサミを取り出す。
夕日に照らされた刃が鈍く光る。
すると少年は目を丸くしたあと、吹き出した。
近くにいた子どもたちも集まり、口々に何かを言い始める。
笑っている。
馬鹿にされていることだけは、言葉が分からなくても伝わった。
そこへ通りかかった大人が肩をすくめる。
腰に下げていた短剣を指さし、俺のハサミを見て首を横に振る。
どうやら、この世界でもハサミという道具は存在するらしい。
だが、それは布や革を切るための道具。
剣にもなれず、槍にもなれない。
戦えない者が持つ、取るに足らない道具。
そんな扱いなのだろう。
俺は静かにハサミをケースへ戻した。
胸の奥が、少しだけざわつく。
理容師にとってハサミは誇りだ。
笑われていいものじゃない。
夕暮れの空を見上げ、小さく息を吐いた。
老人の家へ戻ると、少女が夕食を用意してくれていた。
温かなスープと、焼きたての黒パン。
言葉は通じない。
それでも「たくさん食べろ」と勧めてくれていることは伝わる。
食事を終え、老人が暖炉の前へ腰を下ろした。
ふと、その姿に目が止まる。
肩まで伸びた白髪。
目にかかる長い前髪。
眉は伸び放題で、表情まで隠れている。
職業病だった。
気づけば、腰のシザーケースへ手が伸びていた。
「少し……切らせてもらえませんか。」
当然、言葉は通じない。
それでも身振りで髪を指さし、ハサミを見せる。
老人は不思議そうな顔をしながらも、小さく頷いた。
俺は椅子を引き寄せ、老人を座らせる。
異世界で初めて、ハサミを開く。
カチッ。
静かな部屋に、懐かしい音が響いた。
その瞬間、胸の奥にあった迷いが消えていく。
俺はやっぱり、理容師なんだ。
一本、また一本と髪を落としていく。
伸びきった前髪を整え、耳周りを軽くし、首筋をすっきりと見せる。
最後に、目元を覆っていた長い眉を丁寧に整えた。
やがて、老人はゆっくりと立ち上がる。
何度も首を回し、肩を動かした。
驚いたように目を見開く。
「……!」
首を押さえ、何かを何度も口にしている。
肩が軽い。
視界が広い。
そんなことを言っているようだった。
少女は桶に張った水へ老人を連れていく。
水面に映る自分の姿を見た老人は、しばらく言葉を失った。
そこにいたのは、さっきまでの疲れ切った老人ではない。
背筋が伸び、優しく笑う、一人の紳士だった。
老人はゆっくりと俺へ向き直る。
そして深く頭を下げた。
その瞬間、俺は確信した。
この世界にも、床屋は必要だ。
誰も、まだ気づいていないだけなのだ。




