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渡りに舟  作者: 鈴女亜生


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吉澤瑠璃(後)

 出逢いは高校生の頃だった。クラスメイトであり、彼は隣の席に座っていた。紛う方なき高校生である純朴な同級生を目にして、当時の吉澤は端的に、地味な子、と思ったことを覚えている。


 最初は、と言うよりも、出逢ってからしばらくは、彼のことを意識することがなかった。あくまでクラスメイトの一人であり、そこに特別な感情は良くも悪くも存在していなかった。

 地味という印象が大きく覆ることがないまま、学年が変わり、クラス替えがあったが、そこでも、また彼はクラスメイトだった。


 もしかしたら、それを彼の方は運命と考えたかもしれない。そういう若気の至りがあったとしても、不思議ではないだろう。もちろん、吉澤にそのような考えはなかった。ただの偶然としか思わず、また同じクラスと思ったことがあったとしても、その考えは何かしらの気持ちを膨らませる前に、すぐに消えてしまっていた。


 そんな彼を意識するようになったのは、ちょっとしたことがきっかけだった。


 ある日のことだ。放課後を迎えた吉澤が帰ろうと下駄箱を訪れたところで、偶然にも同じように帰宅しようとしていた彼と鉢合わせた。クラスメイトであるという認識くらいはあるので、互いに軽く帰りなのかと確認するような会話をしてから、二人はそれぞれ下駄箱から出ていこうとした。


 そこで今朝の天気予報では微塵も言っていなかった雨がぽつぽつと降り始めた。雨だと気がつき、お互いに足を止めた、そのすぐ後には雨が勢いを増していき、本格的に降り始めてしまう。


 先程も述べたように、この雨について今朝の天気予報は何も言っていなかった。もちろん、吉澤は傘など持っておらず、帰りたくても帰れない状況に陥ってしまう。


 このまま濡れて帰るしかないか、と憂鬱な気持ちになりながらも、吉澤は帰るための覚悟を決めようとする。一気に走り抜けたとしても、家まではそれなりにかかってしまう。絶対に全身がずぶ濡れになることは確定しているが、それも的外れな天気予報を信じてしまった自身の行いが間違っていたのだろう。


 そう思った吉澤が駆け出そうと身構えたところで、不意に隣から手が伸びてきた。そのことに驚いた吉澤が目を丸くし、自身の隣に目を向けると、そこでは彼が折り畳み傘を差し出してきていた。


「これ、使って」

「えっ? いや、でも、それを使ったら、君が濡れちゃうよね?」


 吉澤はそのようなことはできないとかぶりを振り、差し出された折り畳み傘を押し返そうとしたが、彼は強引にそれを手渡し、鞄を頭の上に持ち上げていた。


「大丈夫。僕は家が近いから」


 そう言って、彼は吉澤が何かを言うよりも早く、降りしきる雨の中に飛び出していってしまう。その姿に戸惑いながらも、吉澤は受け取ってしまった折り畳み傘に目を落とし、地味な子、という印象だった彼に、今度は、優しい子、という新たな印象を懐くこととなった。


 その後、吉澤は借りた傘をきっかけとして、彼と少しずつ話すようになり、お互いの印象を深めていくこととなる。


 やがて、高校を卒業するという時になって、吉澤は彼から告白され、その時から二人は恋人同士となったのだった。



   ~~~   ~~~   ~~~



「その恋人のことは嫌いなのですか?」


 不思議そうな顔をした少年にそう聞かれ、吉澤はかぶりを振っていた。


「別に嫌いじゃないわ。好きよ。いつだって、私のことを大切にしてくれるし、私のことを第一に考えてくれるし、私の言うことを何でも聞いてくれるし、今だって、理由を何も聞かずにお金を渡してくれるし」

「それなら、どうしてホストクラブに?」


 少年の表情は理由が、あるいは気持ちが、分からないという風に物語っていたが、吉澤からすれば、それは何も不思議なことではなかった。


「別に自分で料理が作れても、外食くらいはするでしょう? 素人とプロじゃ求めるものが違うの。恋人は安心感をくれるし、ホストの彼は夢を見させてくれる。その両方を求めて、何が悪いの?」


 あっけらかんと答える吉澤に、少年の表情は少し曇って見えた。軽蔑したのだろうかと考えるが、どちらでも良かった。

 少年とは舟の上での関係だけだ。どう思われても、どうでもいいことだった。


「いつだって、彼は夢を見させてくれるの。今日だって、本当に最高な……」


 そう言いながら、吉澤は川面に目を落とし、そこに浮かぶ自身の姿を見つめる。華美なドレスに着飾った自身の姿は、間違いなくホストに通っている時のもので、今日も吉澤はホストクラブに足を運んだはずだった。


 だが、そうであるなら、いつもの吉澤なら、今頃は酔い潰れているはずだ。浴びるほどに酒を飲み、ぼんやりとした夢心地の中にいるか、もしくは二日酔いで酷い頭痛を抱えているはずだ。


 その両方がない。はっきりとした意識で霧に覆われた川を眺め、何の理由があってそう思ったのかも分からぬまま、どこか分からない川を渡っている。


「最高な……? 最高な?」


 混濁する記憶と状況の不審さに不安を覚え、吉澤が曇った表情で川面を眺め始めたところで、不意に少年が口を開く。


「恋人との仲は良いのですね?」

「えっ? え、ええ、もちろん。彼にお金を出してもらっているのだから、常に仲は良く――」


 そう言いかけた吉澤の頭の中で、激しく叫ぶ彼氏の姿が浮かび上がった。これは何かと思ったのも束の間、吉澤の記憶はゆっくりと霧が晴れたように広がっていく。


「ああ、でも、何でか彼が私のホスト通いのことを知ってしまって、それで喧嘩になってしまって――」


 それからどうしたのか、と吉澤は自分自身に問いかける。彼氏と激しい口論になってしまい、家を飛び出した吉澤はどうしようもない苛立ちを抱え、それを晴らすために再びホストクラブに足を運んだのだ。


「そうだ。それで彼に慰めてもらって――」


 最高だった、とその時のことを思い出し、吉澤は思わず口元に笑みを浮かべていた。散々愚痴を聞いてもらい、散々慰めてもらった後、吉澤はホストの彼に送ってもらうこととなった。


「あっ、それで帰る途中――」


 吉澤の朧げだった記憶が次第にはっきりとした輪郭を持ち始め、吉澤はその中に忘れていた確かな質感を思い出すこととなった。



   ~~~   ~~~   ~~~



 足は覚束なかった。酔った目ではネオンが眩しく、光が頭の中で乱反射しているようだった。大好きな彼が隣で自身を支えてくれていて、吉澤は夢心地だった。


「本当に大丈夫ですか?」


 彼の声が頭の中で大きく反響した。トンネルで叫んでいるような声で、知らない人ならうるさいと怒鳴りそうだったが、彼の声は寧ろ、心地良く響いていた。


「だいじょうぶ、だいじょーぶ!」


 何の根拠もない言葉を繰り返し、吉澤は大きく笑う。今の吉澤の頭からは彼との喧嘩のことなど、すっかり抜けてしまい、この瞬間がただただ楽しくて仕方なかった。


「気をつけてください。転びますよ」


 そう言いながら、彼が吉澤の腰元に手を伸ばし、軽く身体を支えてくれる。その仕草に心拍数を上げながら、隣の彼を上目遣いで見上げ、吉澤は小さく首を傾げた。


「ありがとう」


 そう呟き、彼に身体を近づけようとした時のことだった。


 不意に吉澤の背中に激しい衝撃が襲いかかり、吉澤の身体は大きく揺れていた。彼の手の中から外れそうになり、思わず倒れかけた身体が彼の身体に凭れかかる。

 ゆっくりと激しい温もりが背中に広がり、それが熱いとすら感じ始めた頃になって、激しく揺れる頭の奥に、息が止まりそうなほどの痛みが届いた。


「何が……?」


 と口にしたつもりだったが、声は僅かに動いた口から、空気としてしか出ていなかった。吉澤は自身の背後に目を向けて、そこで鈍く光る何かを見つける。


 赤い光だ。そう思ったのも束の間、そこから垂れる雫が、自身の足元に広がっていることに気づいて、吉澤は目を丸くする。アルコールが吹き飛んだように頭は冴え、しっかりとした意識がぼんやりと広がっていく視界を捉えていた。


 吉澤の背中には、一本のナイフが突き刺さっていた。そこから垂れる真っ赤な血と、背中から広がる鋭い痛みが、吉澤に目の前の光景が夢ではないことを知らせてくる。


「な、に……?」


 ようやく発した声と共に吉澤は顔を上げ、そのナイフを握る手の伸びる先を見つめていた。そこに立っている人物が女性であると思った直後、吉澤は見つめた顔に目を丸くする。


 それは吉澤が以前、言い合いになったことのある、ホストクラブの客だった。


「な、にして……!?」


 そう言いながら、吉澤の視界は大きく回転する。吉澤は自身が地面に倒れ込んだことにも気づかないまま、ゆっくりと意識は途切れていった。



   ~~~   ~~~   ~~~



 頭の中で記憶が繋がった直後、吉澤は反射的に手を自身の背後に伸ばしていた。そこにできているはずの傷を探し、吉澤は何もないことに唖然とする。


「どうされましたか?」


 突然、身体を弄り始めた吉澤を不審に思ったのか、少年はそのように聞いてきた。その声に引かれ、吉澤は少年の顔を見つめてから、自身の周囲を流れる川に目を向ける。


「ええ、嘘……? 嘘!?」


 吉澤は自身の身に何が起きたのか、ここが何であるのか、これまでに聞いたことのある話から、完全に理解してしまっていた。


「い、嫌……!? 嫌よ!? 私はまだ死にたくない!?」


 目の前の現実から目を背けようと思い、吉澤は舟の進行方向と真逆の方に目を向ける。さっき吉澤が立っていた岸は向こうのはずだ。


「待ってください、お客様!?」


 少年は咄嗟に手を伸ばし、そのように叫んでいたが、吉澤は止まるつもりがなかった。このままでは死んでしまうと思い、慌てて舟から飛び降りると、さっきいた岸を目指して泳ぎ始める。


(嫌だ!? 嫌だ!? まだ死にたくない!? もっと遊びたい!?)


 自身が死の淵にいると理解した吉澤は必死に祈り、懇願し、手足を動かし始めていた。華美なドレスは水を吸い、吉澤の身体に重たくまとわりつき、背伸びしたハイヒールは邪魔になったが、それらを気にしている一瞬ですら惜しいと、吉澤は必死に手足を動かし、藻掻き、泳ぎ続けていた。


 川面を覆う霧の中に飲まれ、さっきまで立っていたはずの岸がどこにあるのかははっきりと分からなかった。それでも、自身の感覚が間違ってはいないと信じ、岸があると思っている方に向かって、吉澤は必死に泳いだ。


 少しずつ川に流され、まっすぐ泳いでいるとは言えなかったが、それでも、吉澤は着実に前進し、少しずつ岸に近づいている――はずだった。


 最初に不思議に思ったのは、どれだけ川を進んでも、霧に浮かぶ影が見えなかったことだった。もうそれなりに近づいているはずだが、川は吉澤の泳ぎに合わせて、今も成長しているように端を見せなかった。


 こんなに舟で進んでいない。そう思うほどに泳いでも、吉澤の目には岸が映らず、吉澤の身体は次第に疲労とドレスの重みで、川の中に沈んでいってしまう。


 このままでは溺れる。溺れてしまう。そう危機感を覚えた吉澤が咄嗟に振り返った。

 そこで、少し離れたところに浮かぶ舟を発見し、やはり、自身は十分に進んでいることを実感する。


 それなのに、岸は一向に見えてこない。そう思ってから、吉澤はそれなりに離れたはずなのに、今も舟が見えている事実を不思議に思った。


 川面は今も変わらず、霧が覆っていて、それがさっきまでいたはずの岸を見えなくしている。それなのに、離れた舟ははっきりと見え、そこまでに開いた距離までも分かってしまう。


 これはどういうことか、そう疑問に思った直後、吉澤の身体は限界を迎えように沈み始めた。


「溺れ――!? 助け――!?」


 吉澤は必死に手を伸ばし、舟の上に立つ少年に助けを求めるが、少年は悲しげな目を吉澤に向けるばかりで、吉澤を助けようとするどころか、舟を動かそうとすらしていなかった。


「何し――!? 早く助け――!?」


 そう叫ぶ声も、バタバタと動かす身体が生む水音に掻き消え、吉澤の身体と共に川の中へと沈んでいく。


 やがて、吉澤は必死に手を伸ばしたまま、川の中に消えていき、その身体が起こしていた騒がしい波も、次第に川の中に紛れていった。


 その光景を見送り、少年はぽつりと呟く。


「もう受け入れるしかなかったのに。その先には()()()しかありませんよ」


 その声は吉澤に届くことなく、川のせせらぎの中に消えていった。

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