久那斗
巧みな櫂捌きと川の流れを読む力があれば、川の流れに逆らって上流にも舟を進められるらしいのだが、残念なことに久那斗にはそこまでの技量がなかった。
仕方なく、下流で川岸に舟をつけると、陸経由で上流まで舟を運んでもらえるように久那斗は手配する。
それから、身一つになった久那斗はその足で川の上流に向かい、そのほとりに立つ小さな一軒家を訪れるのだった。
玄関で扉を数度ノックすれば、中から柔らかな声が聞こえてくる。
「はーい、どちら様ですか?」
そう言いながら、扉を開けた一人の老婆と顔を合わせ、久那斗は柔らかに微笑んでいた。黒い合羽の下から覗く顔を目にし、老婆も応えるように微笑み返している。
「久那斗。よく来たね」
「ただいま、だつ婆。けん爺は元気?」
老婆と軽くハグしてから、久那斗は家の中に上がり込み、迎え入れてくれた老婆にそう聞く。それを聞いた老婆の表情は僅かに曇り、「まだ」と言いながら、自身の腰を摩っていた。
「まだ良くならないのか」
「まあ、もう少し大人しくしていたら、大丈夫さ」
空気を変えるように老婆がそう言った直後、家の奥から一人の老爺が顔を覗かせる。
「おお、誰かと思えば、久那斗か。来たのか?」
「けん爺!」
久那斗は現れた老爺に近づき、先程、老婆ともそうしたようにハグをしようとした。老爺は身体を浮かせて、久那斗の方に両手を伸ばしてくるが、そこで耐えかねたように表情を曇らせて、不意に身を屈める。
「いたたたたたぁ……!?」
「大丈夫、けん爺!?」
苦悶の表情で腰に手を当てる老爺を前にして、久那斗は慌てた様子で両手を伸ばしかけていた。
が、それをどこに伸ばせば、何をすればいいのかと、老爺の身体に触れる直前で気がつき、結局、久那斗は老爺の周りであたふたとすることしかできない。
「だ、大丈夫。まだ少し痛むが、歩けるくらいにはなったんだ。もう少しの辛抱さ」
「そ、それならいいけど……」
そう答えつつも、久那斗が不安な眼差しを向けていると、それに気がついた老爺が顔を上げ、微笑みながら聞いてきた。
「ところで、渡し守の仕事はどうだ? うまくやれているか?」
今度は老爺の方が久那斗に不安そうな眼差しを向け、久那斗は問題ないとしっかり伝えるために、力強く頷いてみせる。
「大丈夫。うまくできているよ」
「そうか? それならいいが……。急に任せることになってしまって、すまなかったね」
老爺は謝罪するように僅かに頭を下げ、腰に痛みが走ったのか、少し表情を曇らせていた。明らかに自分の方が大丈夫そうではないと思いながら、久那斗は少しでも楽でいられるように老爺を近くの椅子の方に促す。
「大丈夫? けん爺、無理しないで休んでね」
「いやいや、大丈夫。寧ろ、立っている方が楽なんだ。椅子は痛くて座れない」
そう言って、老爺は大きく笑っていたが、久那斗は全く笑えなかった。本当に大丈夫なのかと不安になるが、本人が大丈夫と言っているなら信じるしかないのだろう。
「もう少し戻れそうにないが、仕事は続けられそうか?」
立っている方が楽なら、このまま話すことにしようと、久那斗も老爺に付き添うように立ったまま話し始めた直後、老爺は久那斗にそのように聞いてきた。久那斗が急な仕事を辛く感じていないか、不安に思っているのだろう。
だが、老爺の心配するようなことは何もなく、久那斗は急遽任された渡し守の仕事を、寧ろ気に入り始めていた。
「続けられるというか、寧ろ、この仕事が合っていると感じ始めているよ」
「そ、そうか……!?」
久那斗が素直に今の気持ちを伝えると、老爺は嬉しそうに微笑み、思わず老婆と笑顔で顔を見合わせていた。その光景に久那斗まで温かな気持ちになってくる。
「いろいろなお客様がいて、川を渡るまでの少しの時間だけど、その人達のことが知れて、改めて、僕は人間が好きだって気がついたんだ。その人間と最後に関われる、この仕事は向いている気がするよ」
「それなら、ちゃんと仕事を教えてあげないといけないな。この腰が治ったら、一緒に舟に乗ろう。分からないこともあるだろう? そう言うことを少しずつ教えてあげよう」
そう言ってくれた老爺に久那斗は微笑み、「ありがとう」とお礼の言葉を口にする。今の久那斗では、この家まで舟で来るだけの技術がないが、それも老爺に教えてもらえたら、いつかは身につくかもしれないと思っていた。
「その時を楽しみにしているから、早く腰を治してね、けん爺」
久那斗は老爺の腰を労りながら、まだ少しの間、独学で仕事を続ける必要があるかと思いつつ、次の客はどのような人だろうかと考え、楽しみな気持ちも募らせていくのだった。




