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渡りに舟  作者: 鈴女亜生


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3/5

吉澤瑠璃(前)

 川のせせらぎが耳の中で騒がしく、吉澤(よしざわ)瑠璃(るり)は我に返った。気がついたら、そこは川のほとりだった。霧に覆われた川面を眺めて、吉澤は戸惑いの表情を浮かべる。

 足元には一面の小石が広がっていた。背伸びしたハイヒールが足元を不安定に揺らし、足首があらぬ方向に曲がろうとして、吉澤は思わず眉を顰める。


「何、ここ……?」


 腹の底からの不信感と不安感と嫌悪感を露わにし、そう呟いた吉澤の視線が霧の中に向いた。川面を覆う霧は一面を白く染め上げ、川の全貌を包み隠している。


 どこまで川が広がっているのか、その川の向こうに何があるのか分からなかったが、不意に吉澤は目の前の川を渡らなければいけない気持ちに駆られていた。何かをしようと席を立ち、何をしようと思ったのか忘れながらも、向かおうと思っていた場所だけははっきりとしていて、そこに足を運ばなければいけないと感じる、それに近しい感覚だ。


 とはいえ、不明瞭な川に足をつけて、渡ろうとすることほどに無謀なことはない。渡るためには橋か何かを探さなければいけないと、吉澤が周囲に目を向けたところで、川を覆う霧の中から影が浮かび上がっていることに気づいた。


 何かと目を凝らせば、ゆっくりと影は明瞭な輪郭を持ち始めて、次第に小さな一艘の舟が顔を覗かせる。舟の上には、真っ黒い合羽に身を包んだ一人の船頭が立っていた。


「どうされましたか?」


 こちらに近づく舟をじっと眺めていると、舟の上から船頭が声をかけてきた。その声と、ようやく顔が見えたことで、吉澤は舟の上に立っているのが非常に若い少年であることに気がつく。


「いや、気がついたら、ここにいて」


 どうしたのかと聞かれても、それに相応しい回答の一つも持っていないと思いながら、戸惑うように吉澤が答え、川を渡る舟に乗っているなら、ここがどこなのか少年は知っているのではないかと、はたと気づいた時のことだった。


「もし宜しければ、乗っていかれますか? 向こう岸までお渡ししますよ」


 舟の上から少年が笑顔で語りかけ、そのように提案してきたことに、吉澤は率直に驚いていた。ちょうど川を渡りたいと感じていた中での提案だ。渡りに舟とは言うが、本当にこのようなことがあるのかと思いながら、吉澤はどのように返答しようかと一瞬、迷う。


 小さな舟の上。川は深い霧が覆っている。その中で少年と二人になることを考え、本当に大丈夫かと吉澤は思ったが、舟の上に立つ少年が未だ義務教育を受けている年齢とも思えるほど、幼く見えることを確認し、流石に自分の考え過ぎかと吉澤は少年の提案を受け入れることに決める。


「それじゃあ、お願いするわ」


 吉澤がそう答えると、少年は手に持っていた櫂を器用に動かし、ゆっくりと舟を川辺につけていく。舟が動かないように櫂で固定すると、少年は吉澤の方に軽く手を伸ばしてきた。

 その手を握り、吉澤は軽く跳ぶように舟に乗る。舟が川の上で揺れ、吉澤はバランスを崩しそうになるが、少年の助けもあって、何とか無事に済んでいた。


「では、出発しますね」


 少年がそう言って舟を漕ぎ始めた直後、その時になって、吉澤は当たり前のように思い出すべきだったスマホのことを思い出していた。スマホの地図アプリを利用したら、自身が今、どこにいるか分かるはずだ。そのような当然のことも頭から抜けて、自分は何をぼうっと川を眺めていたのか、と吉澤は少し前の自身の行動を責めるように思う。


 取り敢えず、まずは現在地の確認をするべきだ。そう思った吉澤がポケットに手を突っ込み、その中を一頻り探ってから、スマホがそこにないことに気がついた。


 ポケットではないとしたら、鞄の中だろうか、と思った吉澤が鞄を探ろうと手を動かし、自身が何も持っていないことに、ようやく気がつく。さっきまで何も意識していなかったが、鞄はどこにやったのかと思い、吉澤は川で我に返るまでのことを思い返そうとする。


「お姉さんは何をされている方なのですか?」


 そこで不意に少年がそう聞いてきた。記憶を遡ろうとしていた吉澤はその声に顔を上げ、舟の向かう先をじっと見つめたまま、櫂を動かしている少年の顔を見上げる。


「何って、仕事?」

「はい」

「仕事は保育士。子供の世話をしてる」


 やや言いたくない気持ちに駆られながらも、変に誤魔化すことでもないだろうと感じ、吉澤は素直にそう伝える。


「保育士さんですか。子供が好きなんですね」


 少年は何気なく、そのように感想を口にしていたが、それを聞いた吉澤は思わず眉をピクリと動かしていた。


「子供が好き、ね……」

「違うのですか?」


 少年の感想に突っかかるような言い方で吉澤が呟いたからだろう。少年は不思議そうにそう聞いてきたが、吉澤は少し迷ってから、かぶりを振っていた。


「別に違わないわ。少なくとも、最初は」


 まるで今は違うと言っているような言い方で、最初はそうだったと強調した吉澤を不思議に思ったのか、少年は櫂を握る手を少し休めながら、吉澤の方を不思議そうな顔で振り返っていた。


「小さい頃は子供が好きで、よく一緒に遊んだりしてた。自分は子供好きだって思って、それなら、将来は保育士になりたいって、今の職業につくことを決めたの。でも……」


 吉澤は眉間に深い皺を作りながら、忌々しそうに呟く。


「実際、なってみたら分かった。私は子供が好きなんじゃなくて、自分の言うことを聞く弱い存在が好きだったんだって。保育園に預けられる子供なんて、全員、我が儘なガキばっかりで、心底子供が大嫌いだって気づかされた」


 吉澤は頭の中に湧いた靄を消し飛ばそうと、自然と手元の鞄を探るような仕草を取っていたが、先程も確認したように、そこに鞄は置かれていなかった。煙が足りないと苛立ちを抱えながら、鞄をどこにやったのかと、さっき考えかけたことを再び思い出したところで、少年が口を開く。


「言うことの聞かない子供は嫌いだったんですか?」

「そうよ。食事も昼寝もトイレも、何一つだってまともにできない癖に、ちゃんとしようという意思がない。そう言うのばっかり相手にして、本当、ストレスで頭がおかしくなりそう……!?」


 川面に唾を吐き捨てるように吉澤はそう言った。抱えたストレスは日に日に膨らんで、何もしなければ気が狂いそうなほどだった。一歩間違えれば、預かった子供に手を上げていたかもしれない。


 だが、そうならなかったのには理由があった。そのことを思い出しながら、吉澤は自身の着飾った姿に目を向ける。足元のハイヒールもそうだが、身にまとった華美なドレスも、当然吉澤の普段着などではなかった。


「大丈夫ですか?」


 少年が僅かに舟を止めて、心配した目で吉澤を見つめてくる。それほどまでにストレスが吹き出しかけた吉澤の様子は異常だったのだろう。

 その目を真正面から見つめ返し、少し前のことを思い出した吉澤は温かな気持ちとなり、僅かに目を細める。


「ええ、大丈夫よ。だって、あの人と逢えたから」

「あの人?」

「そう。あれは運命だったの」


 そう言いながら、吉澤が思い出したのは、とある夜の出来事だった。



   ~~~   ~~~   ~~~



 当時の吉澤は保育園で抱えたストレスの捌け口を持っていなかった。子供に対する虐待も頭を過った瞬間があったが、そのようなことをしてしまえば、ストレス以上に厄介なことになるのは目に見えている。


 最後の一線を何とか保つために、吉澤が頼った先が煙草とアルコールだった。


 吉澤はほぼ毎晩、潰れるほどに飲んでいた。仕事がどれほど忙しく、へとへとになって帰宅したとしても、酒に伸ばす手を止められなかった。気づいたら、トイレで嘔吐物と一緒に目を覚ますこともあった。


 それでも、仕事があれば出勤するしかないと、吉澤は僅かなリミッターをつけて、辛うじて働けるくらいの余力は残していたが、いざ翌日が休みとなると、その僅かなリミッターですら、どこかに吹き飛んでしまっていた。


 休日の前夜の吉澤は一切の歯止めが利くことなく、外で浴びるほどに酒を飲んでいた。当然のように記憶は途切れ、目を覚ました時には見覚えのない場所にいることも少なくなかった。


 その日もそうだった。翌日が休みであるという事実に溺れ、浴びるほどの酒を口にした結果、吉澤の意識は途切れ、気がついた時にはどこかの道端で蹲っていた。気持ち悪さは頂点を超え、既にどこかで吐いたようだ。口の端には噛み砕いた何かが混じった黄色い液体が付着していた。


 視界が回っていた。前後左右の感覚が消え、手足は思うように機能していなかった。内臓から全て吐き出してしまいそうなほどの気持ち悪さに襲われ、呼吸すらも何かのスイッチを押しそうで、微かにしかできなかった。心臓の音が耳の中でうるさく、それが気分の悪さを増長させた。

 ふと、このまま死ぬのかもしれないと、嫌な予感すら過った時のことだった。


「大丈夫ですか?」


 そのように声をかけられ、吉澤は回る目を何とか持ち上げて、聞こえた声のする方を向いていた。


 そこに一人の男が立っていた。心配した眼差しで吉澤を見つめて、手に持ったハンカチを吉澤に手渡しながら、再び「大丈夫ですか?」と口にしていた。

 その姿に、その仕草に、その声に、吉澤の意識は急速に吸い寄せられていた。回る景色の中に浮かび上がった姿はネオンよりも輝き、吉澤の目には眩しく映った。


「だ、いじょうぶです……」


 辛うじて声を発しながら、吉澤はこのような姿はだらしないと、このような姿はみっともないと感じ、慌てて立ち上がろうとした。


 しかし、ふらふらとした手足で支えられるほど、今の吉澤の身体は軽くなく、吉澤は起き上がろうとした姿勢のまま、その場に激しく倒れ込みかけた。


 その身体を男が咄嗟に支えた。吉澤の身体は男の手の中に収まり、不意に見上げた視線の先に、男の眼差しが止まる。


 その時、吉澤の中に抑え切れないほどの感情が芽生え、吉澤はその一瞬を永遠と錯覚するほどの強い衝撃に襲われる。

 端的に言って、この時、吉澤は恋に落ちたのだ。


 やがて、吉澤はこの時の男が忘れられず、男と逢うためにこの時の繁華街に足繁く通うようになっていく。男の素性を知ることになるのは、そのすぐ後のことだった。



   ~~~   ~~~   ~~~



 不意に思い出した吉澤の思い出話を聞いて、少年は軽く微笑んでいた。


「それが恋人さんとの出逢いなのですね」


 そう言った少年に吉澤はかぶりを振る。


「恋人じゃないわ」

「え? 違うのですか?」

「その彼ね。()()()だったのよ」


 偶然にも吉澤が出逢った運命の相手は、吉澤が倒れていた場所の近くで働くホストだった。そのことをしばらく後に知った吉澤は、それから何度も、そのホスト目当てにホストクラブに通うようになっていた。


「彼ね。何でも聞いてくれるの。私の愚痴も、お願いも、何でも。私の全てを包み込んでくれるの」


 吉澤はその男を思い出して目を細める。吉澤にとって、その男との出逢いは運命であり、その男と出逢ってから、その男に逢いに行くことが一番のストレス解消となっていた。


 それ以来、一日に吸う煙草の本数も、酒量も減り、吉澤はストレスの末、別のことで身体を壊すような、破滅的な日々を過ごさなくなっていた。


「それは……良かったです……?」


 戸惑うように少年がそう口にしてから、船首の方に顔を向ける。再び舟を漕ぎ始めた少年の後ろ姿を眺めて、吉澤は小さく笑う。

 どうせ、子供には分からない。そう思った。


「今の私はね。彼を店一番のホストにすることが一番の夢なの。それもちゃんと私が、私の力でね。誰にも負けない。そう、誰にも……」

「何かあったんですか?」


 小さく呟いた吉澤の言い方が気になったのか、少年が顔を舟の進む先に向けたまま、そのように聞いてきた。


「別に大したことじゃないわ。ただ彼に他の客がいて、そいつとたまたま逢ったことがあって」


 偶然にも、店の外で鉢合わせてしまったことが原因だった。自然と、吉澤とその客の女は言い合いになってしまい、無理矢理、ホストの男が引き剥がさなければ喧嘩はもっと派手になっていたことだろう。


「地味でパッとしない女だった。あんなのに負けるわけがない」


 そう言いながら、吉澤は川面に目を落とす。

 自分の方が綺麗で可愛い。それは漠然とした自信などではなく、客観的な事実だった。


「それで、今日もホストクラブに通っていたのですか」


 保育士と言うには派手な格好だと思っていたのだろう。少年が納得したように呟き、吉澤は否定しなかった。


「けど、驚きました。保育士さんはそれほどお金が稼げるのですね」


 保育士という職業が頻繁にホストクラブに通えるほど、収入が高いというイメージがなかったのだろう。少年は知らなかったという風にそう呟いていたが、それは間違いではなかった。


「そんなに稼げないわよ」

「えっ?」

「お金はね。出してもらってるの」

「誰に?」

()()


 吉澤があっけらかんとそう答えると、まさか、そのような言葉が出てくると思っていなかったのか、心底驚いた様子で少年が振り返った。


「えっ? 恋人がいるんですか?」

「ええ、学生時代から付き合ってるのがね」


 そう呟く吉澤の横顔を、少年は大きく見開いた目で見つめていた。

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