須藤禄郎(後)
須藤の妻が無事に退院し、家に帰ってきた後のことだ。命は助かったとはいえ、後遺症の残ってしまった妻は日常生活で行っていたいくつかのことが、自由に行えないようになっていた。
例えば、トイレも一人で用を足すくらいならできるが、トイレットペーパーを使うことや長時間、便座に座っていることが難しくなってしまったので、時たま須藤が手伝う必要があった。妻は恥ずかしそうに、申し訳なさそうに謝っていたが、それもこれも須藤が妻を見てこなかった故の結果だ。寧ろ、こちらがこのような辱めを与えてしまって申し訳ないと、激しい罪悪感に襲われることが多かった。
そういう取れなくなった行動の一つに、電話に出るというものがあった。これは電話に出られなくなったというよりも、素早く電話を取るということが難しくなり、結果的に出られない時が増えたという方が正しい。
必然的に須藤が電話に出る場面が増え、その時も須藤が何気なく、鳴り響く受話器を手に取っていた。
「もしもし、須藤です」
受話器を取った須藤がそのように話しかけると、しばらく沈黙が続いた。一瞬、切れたのかと思ったが、それにしては何も聞こえない。切れていたとしたら、ツーツーという音が聞こえてくるはずだ。
須藤は不思議に思いながら、もう一度、声をかけてみる。
「もしもし?」
すると、電話の向こうで少し息を吸う音が聞こえ、ゆっくりと戸惑うような声がそれに続いた。
「……親父?」
それは久しぶりに聞く息子の声だった。須藤は驚き、あわあわと唇を震わせた。何を言えば分からず、何とも言えない意味のない声をいくつも発してしまう。ようやく名前を呼べた時には、須藤よりも先に息子の方が落ちついた様子だった。
「どうして、親父が?」
「お前こそ、どうして?」
そう言って、二人は互いに連絡を取らなかった間のことをぽつぽつと話し始めた。須藤はそこで妻が密かに息子と連絡を取り続けていたことを知り、須藤は自身の知らない間に、息子が妻の空白の時間を埋めてくれていた事実に申し訳なさと有難さを覚えていた。
「いつもなら、連絡があってもいい頃なのに、何もないから、どうしたのかと思って」
そのように言う息子に、須藤は妻に起きたことと、それで自身が決めたことを話し始めていた。その話は自然と、息子と最後に逢った時のことに繋がり、あの時のあの息子の指摘は何も間違っていなかったと今になって気づいた自身の愚かさを息子に謝罪していた。
その須藤を息子は責めることがなかった。案の定、妻を放置して、倒れるまでに体調が悪くなっていることに気づかなかった、と須藤は言われても仕方ない立場にいたが、そのようなことは一つも言わず、自身の母親が今は元気なのかと訊ねてくるだけだった。
この時の須藤は分からなかったが、後に息子と話した時、息子は自身の母親に対して、須藤が思っているような後悔を懐いたらしい。父親が母親のことを顧みないと分かっていながら、連絡を取っている自分が母親の変化に気づけなかったと、気づくべきだったと感じたらしい。
だから、責められなかったと教えられ、そのことにも須藤は申し訳なさを懐くことになる。
「母さんはどんな様子なんだ?」
そう言った気持ちを隠し、そのように聞いてきた息子に、須藤は母親の状態をゆっくりと話していく。命は助かったが、いくつかの後遺症が残ってしまったこと、日常生活に不便が出始めていること、そのことを母親が申し訳なく思っていること。自身が仕事をやめて、妻のために時間が作れるようにしているが、それでも不安は消えない事実を話した後、息子はしばらく押し黙っていた。
「今度、家に帰ってもいいか?」
しばらくして、息子がそのように聞いてきたことで、須藤は数年ぶりに息子と逢うこととなる。
~~~ ~~~ ~~~
須藤の話を聞いた少年が嬉しそうな顔で振り返った。
「それは良かったですね」
櫂を持つ手を止めて、拍手する少年の姿に須藤は気恥ずかしさを覚える。
「それでどうなったのですか?」
「少しずつ息子も、いろいろなことを手伝ってくれるようになりまして、それで先程言った旅行などにも行けるようになったんですよ」
須藤一人なら、長くは歩けない妻を連れての旅行は難しかっただろう。妻との思い出が作れたのも、全ては息子のお陰だった。
「息子さんが手伝ってくださったから、奥さんとの思い出が生まれたのですね。仕事もあって忙しいだろうに、協力してくださるなんて、いい息子さんですね」
少年がそう言って微笑んだことで、須藤はもう一つ、話していない事実があることに気づく。とはいえ、それは須藤が本当に無知だったことを示すようであり、とても恥ずかしいことではあったのだが、ここまで話して言わないのも違うだろうと思い、須藤はかぶりを振っていた。
「いえ、実は息子だけではないんですよ」
「はい?」
再び舟を漕ごうとしていた少年の手が止まり、不思議そうな顔でこちらを向く。
「どういうことですか?」
「実は私の知らない間に、息子は結婚していたんですよ。それも子供も一人」
知らない間に須藤には孫が生まれ、お祖父ちゃんとなっていた。当然、連絡を取っていた妻は知っていたことだが、須藤にはうまく話せなかったらしく、息子と顔を合わせるまで知らなかった。
そのことを怒るわけでもなく、ただ自身のあまりの無知さに恥じた当時の記憶を思い出すように、耳まで顔を真っ赤にした須藤に向かって、少年は少し控えめに手を叩く。
「お、めでとうございます……?」
「面目ない……」
その反応も含めて、須藤はしばらくぶりに恥ずかしい気持ちになった。
「では、その息子さんのお嫁さんも協力してくださったというわけですか」
「はい」
息子家族の力も借りて、須藤は様々な思い出を妻と作ることができた。その感謝を改めて思い出し、感慨深い気持ちになりながら、ぽつりと呟く。
「本当に、最期に妻と過ごせて良かった」
「えっ?」
その一言に少年が大きく反応し、こちらを振り返った。その表情に、少し悲しげな笑みを返してから、須藤は伝える。
「妻はもう亡くなりました、数年前に」
「あっ、ああ、そういうことですか……」
そのように言いながら、少年は視線を船首の方に向け、再び舟を漕ぎ始める。
「それはご愁傷様です」
そのように言ってから、須藤も少年も何も言葉を発することなく、ただ川の流れる音だけが耳の中を騒ぐ。
「それからはお一人で?」
しばらくして、少年がそのように聞いてきた。須藤はその一言にかぶりを振り、霧に覆われた空を見上げる。
「息子が、息子夫婦が、一緒に暮らさないかと提案してくれまして、それで息子家族の家に」
「ああ、それは良かった」
少年が安堵したように息を吐き、須藤は微笑む。
「お陰様で、毎日がとても楽しいんですよ。気づいた時には大きかった孫とも、取り戻すように一緒に遊べて、今日も縁側で――」
そう口にしたところで、須藤は不意に思い出した。
「そうだ……。縁側で……」
そう呟いた須藤の声を聞いて、少年が振り返り、優しく微笑んだ。
~~~ ~~~ ~~~
息子家族の借りる借家に身を寄せて、数年が立っていた。生まれたことを知った時には、まだ小さかった孫も、小学校の高学年となろうとしていた。
「お祖父ちゃん、これやろう」
そう言って、孫が持ってきたものはオセロだった。それは遊びという遊びの知らない須藤でも知っていた数少ない遊びであり、唯一と言っていいほどに数少ない孫と遊べるものだった。
「ああ、いいよ」
そう答えて、縁側に座ったまま、須藤は孫とオセロを始めた。勝った、負けたを繰り返し、何戦かした後、孫が大きく伸びをした。
「少し休憩。お祖父ちゃん、おやつにしよう」
「お祖父ちゃんはいいから、食べてきな」
そう促し、孫がオセロを置いたまま、リビングの方に駆けていく。その後ろ姿を見つめたまま、須藤は縁側に射し込む日差しの暖かさに、少しずつ眠気を感じ始めていた。
まさか、自分がこのような時間を過ごすようになるとは、忙しなく働いていた頃の須藤は考えもしなかった。孫との時間もそうだが、再び息子と暮らせるようになるなど、あのまま時が過ぎていたらあり得なかったことだ。
それもこれも妻が繋いでくれた絆であると感じると、そのようなものを受け取ってしまって、本当に良かったのだろうかと須藤は不安になる。自分は妻に何もしてこられなかった。その結果を最悪な形で目の当たりにするまで、自身を変えようとも思っていなかった。
その自分が、これほどまでに穏やかで、幸せな時間を享受してもいいのだろうか、と須藤はどうしても考えてしまう。
本当は妻もこの場所に一緒にいて欲しいと、一緒にいさせたかったと、須藤は取り返せない後悔を懐きながら、眠気に負けて瞼を閉じる。
もしも、また妻と逢う機会があったら、その時は自身の受け取った穏やかな幸せの一部だけでも伝えられるように、妻との時間を大切にしていこう。もっと妻が何の気兼ねなく、自身の身体のことなど気にすることもなく、穏やかで温かな時間を過ごせるように努めよう。
そのように考えながら、須藤は眠りに落ちていく。深い、深い、眠りの奥に須藤は落ちて、落ちて――。
~~~ ~~~ ~~~
「岸が見えてきましたよ」
不意に少年がそう呟き、須藤は記憶の淵から顔を上げていた。ゆっくりと思い出したことが繋がり、須藤は少し戸惑いながら、少年の視線の先に目を向ける。
そこにゆっくりと浮かび上がる人影を発見し、須藤は静かに微笑んでいた。
「そうか。もう時間だったのか」
そのようにぽつりと呟いて、須藤は霧の中にはっきりと浮かび上がる、自身の妻に手を振る。そのことに気づいた妻も手を振り返し、その手が後遺症の残っていた手であることに気づくと、須藤は思わず笑みを零していた。
「元気そうで良かった」
その言葉の矛盾を自身でおかしく思いながら、須藤は少年が川岸に舟を寄せる様子を見つめる。少年は器用に櫂を動かし、舟を固定すると、こちらを笑顔で振り返っていた。
「到着しました」
「ここまで本当にありがとうございます」
そのように言い、舟を降りようとしかけて、須藤は思い出したように足を止める。
「ああ、そうだ。渡り賃……」
そう言ってから、自身は縁側で事切れたのだと思い出し、何も持っていないと焦りながら、服を弄ろうとする。
そこでポケットに硬い何かが収まっていることに気づき、須藤は不思議そうにポケットに手を突っ込んでいた。
そこには小銭が数枚、入っていた。
「こんなところに、どうして?」
「それはきっと、ご家族のお気持ちですよ」
不思議に思った須藤の呟きに少年がそう答え、須藤は反対側に残してきた息子達のことを思い出し、温かな気持ちになる。
ポケットに入っていた小銭を少年に手渡し、須藤は妻のいる川岸に降りると、少年に再び礼を言っていた。
「本当にありがとうございました」
「これからはお二人で、ゆっくりお休みください」
笑顔でそう告げる少年が再び舟を漕ぎ出し、霧の向こうに消えていく。その姿を見送ってから、須藤は妻の手を取り、二人で微笑み合って、こちらの世界に歩を進めていくのだった。




