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渡りに舟  作者: 鈴女亜生


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1/5

須藤禄郎(前)

 気がつけば、川のほとりに立っていた。水の流れる音も、足の裏を刺激する石の硬さも、気づいた時にはそこにあった。今の今まで眠っていたような、ふわふわとした感覚に襲われながら、須藤(すどう)禄郎(ろくろう)は顔を上げる。


 川辺には深い霧がかかっていた。正面を向いても、左右を見ても、振り返っても、ほんの三メートルほど先までしか見えず、その向こうに何があるのかも分からない。

 何があったのかと少し思い出そうとしてみたが、頭に靄がかかったように少し前のことがうまく思い出せない。まるでこの河原のようだと、須藤はすぐに思い出すことを諦めて、正面を流れる川に目を向けた。


 すると、どうしてか、その川を渡らなければいけない気持ちに駆られ始めた。川には深い霧がかかり、その向こう側になにがあるのかは分からない。それでも、この川を何とかして渡らないといけない、と焦りにも似た感覚を覚え、思わず川に足を踏み入れそうになった時のことだった。


 深い霧の中に影が浮かび、須藤は思わず足を止めていた。ゆっくりと何かが近づいてくると思っていると、次第に影が濃くなって、霧の向こうから一艘の舟が顔を出す。


「どうされましたか?」


 その舟の上に乗った一人の少年が声をかけてきた。黒い合羽で身を包んだ少年で、手に握った櫂を動かし、器用に舟を動かしている。


「いや、気がついたら、ここにいて」


 そう答えた須藤の頭に、ここがどこなのか、どうしてここにいたのか、未だに自分でも分からない疑問が浮かび、その一つでも解消しようと、ここがどこなのかと聞こうとした直前のことだった。


「もし宜しければ、舟に乗りますか? 向こう岸まで渡っていきますか?」


 舟を河原に寄せながら、少年がそのように聞いてきた。それを聞いた途端、須藤はそれまで思い浮かべていた疑問を忘れ、気がついた時には頷いていた。


「はい、お願いします」


 そう言って、須藤は少年が止めてくれた舟の上に、落ちないよう気をつけながら、ゆっくりと乗り込んでいた。


「では、出発しますね」


 少年はそう言うと、櫂を器用に操って、舟を動かし始める。川の流れは急ではなかったが、穏やかとは言い難い流れに見える中で、少年の舟は大きさから考えられないほど、静かで揺れも少なかった。


 これなら酔うこともなく、快適に向こう岸まで渡れそうだ、と思った須藤が少年に目を向ける。少年は若いというよりも、幼くすら見える見た目をしていた。中学生であると言われても信じるほどだ。


 その少年の見た目に反して、舟の上での少年の体重移動や櫂捌きは目を見張るものがあった。一体、いくつの頃から舟に乗っていたら、これほどまでにうまくなるのだろうと感心しながら、須藤は少年に声をかけてみる。


「いつも、ここで舟に?」


 須藤の声に、舟の進む先を見つめていた少年が振り返る。少年はニコリと笑ってから、小さくかぶりを振って、視線を船首に向ける。


「普段は僕の祖父が船頭をやっているのですが、少々腰を痛めてしまいまして。普段なら、祖父が休む時は祖母が代わりを務めるのですが、今回は余程だったのか、祖父の看病が必要だとかで、僕が引っ張り出されることになってしまいました」


 少年は舟の進む先に目を向けたままだったが、その弾むような声が少年の笑顔と、やや恥ずかしそうな苦笑いが須藤の目にも浮かぶようだった。快活な良い少年である、という印象と共に、腰を悪くしたという祖父の年齢が自身とも近そうなこともあり、須藤はやや心配の気持ちが強くなる。


「お祖父さんは大丈夫ですか?」

「まあ、何とか大事には至らなかったようで。しばらく安静にしていれば、直に良くなるとお医者さんには言われたそうです」

「それは良かった。年を重ねると、ちょっとのことで大事になりますからね」


 須藤は自分のことのように安心し、ほっと胸を撫で下ろす。その様子をちらりと見ていた少年が、視線を船首の方に戻しながら、須藤に質問してくる。


「お爺さんは何をされている方なのですか?」


 少年にそう聞かれ、須藤はやや困ったように苦笑を浮かべた。何をしているのかと聞かれても、今の須藤には具体的に答えられるだけの何かがなかった。


 代わりに、須藤は少し昔のことを思い出す。


「昔は会社員をしていました。文房具を作っている会社の営業職でね。いろいろなところに出回っては自社の製品を売り込むということをやっていたのですよ」

「足を使う仕事という奴ですね。大変そうだ」

「それはどうだか……。舟を漕ぐ方がよっぽど大変だと思いますよ。話しさえできれば、特別なスキルのいらない仕事でしたから。それに……」


 須藤は舟の側面を激しく流れる川面に目を落としていた。


「定年前に退職したんですよ」


 須藤がそのように白状すると、少年はやや怪訝げにこちらを振り返っていた。


「それはどうして?」


 少年の問いかけに須藤は言うかどうか口籠ってから、ぽつぽつと川面を揺らす飛沫のように言葉を零し始めた。


「妻がね。病で倒れたんですよ」



   ~~~   ~~~   ~~~



 須藤がそろそろ五十代も半ばを迎え、現場から管理職に出世しないかと話が持ちかけられた頃のことだった。いつものように自宅へ帰ると、普段なら、真っ先に出迎えてくれていた妻の姿が見当たらなかった。

 最初は違和感を覚えたが、少し疲れて眠っているのかもしれないと、深くは考えずに須藤はリビングに足を運んでいた。


 そこで妻の姿を探してみるが、そこには見当たらず、寝室で本格的に眠っているのだろうかと思いながら、須藤は服を着替え始めた。堅苦しいスーツを脱ぎ、緩やかなスウェットに身をまとい、少し気持ちが落ちついたところで、水でも飲もうとキッチンに足を踏み入れる。


 そこでようやく須藤は倒れた妻の姿を発見した。思わず足が止まり、身体は蛇に睨まれたように固まった。指先に力が入らず、目は見開かれたまま、目の前の現実を受け入れられていなかった。唇はわなわなと震え、言葉を発するどころか、息も儘ならず、数秒はそこで立ち竦んでしまっていた。


「どうした!?」


 ようやく目の前の光景を受け入れられた時、須藤は妻に駆け寄っていた。意識がないことを確認し、慌ててリビングに戻り、鞄から携帯電話を取り出した。震える指で一一九番に電話をかけて、落ちつかない唇から落ちつかない言葉を発して、何とか救急車を呼ぶ。


 その時のことの大半を須藤は覚えていない。それほどまでに必死だった。その後に何をしたのか、駆けつけた救急隊に依れば、須藤は必死に心臓マッサージを行っていたらしい。会社の研修で一度、教えてもらった程度の知識だったが、それを引っ張り出して、妻を助けようとしたらしい。


 その甲斐もあったのか、妻は一命を取り留めていた。やや手足に痺れが残り、日常生活に若干の不自由を強いられることとなったが、それでも、命があるだけありがたかった。


 その一方で、須藤は深く後悔していた。これまで仕事一筋で会社に勤め、それが妻や子のためとなっていると考えていた須藤だったが、身近にいるはずの妻の変化に倒れるまで気づくことがなかった。


 もしも、須藤がもっと早く妻の異変に気づけていたら、妻は生死の境を彷徨うこともなかったのかもしれない。

 そう思ったら、自身の行ってきたことのどこが家族のためになっているのか、と須藤は考えるに至っていた。


 そして、須藤は妻の容態が安定した頃を狙って、一つの決心を妻に伝えていた。


 それが会社を辞める決心だった。


 もちろん、須藤の妻は大きく驚いた。自分のためかと問われ、須藤は否定し切れなかったが、それが全てではないと答えていた。何より、自分のために家族に尽くしたいと考えるようになり、そのためには仕事をただ行うのではなく、もっと家族との時間を作るべきだと考えるようになっていたのだ。


 幸い貯金はあったので、退職金と合わせて、しばらくの生活に困ることはない。年齢的に厳しいかもしれないが、アルバイトでも何でも、今より時間を作れる仕事が見つかればいい。須藤はそう考えていた。

 その急な決断に須藤の妻は最初こそ難色を示していたが、須藤の決心が固いこと、それに須藤が初めて家族を思って決めたことが妻に伝わったのか、最終的には須藤の決意を認めてくれていた。


 その翌月、須藤は長年勤めた会社を退職し、更に翌月には、それまでよりも時間の取れる清掃会社のアルバイトを始めるに至っていた。



   ~~~   ~~~   ~~~



 最初はぽつぽつと零すように話していた須藤だったが、気がつけば語る言葉は跳ねるように口から飛び出していた。妻との思い出を思い出し、それをなぞるように話していくことが、古いアルバムを引っ張ってきたような懐かしさや温もりを伴っていて、いつの間にか、話をするということがとても楽しくなっていたようだ。


 そのことに須藤は話している途中に気がつき、嬉々とした様子で自分語りをする自身の恥ずかしさに、思わず顔を真っ赤にするのだった。


「す、すみません……!? このようなことを長々と……!?」


 年寄りの昔話など、しかも、妻との思い出というプライベートにも程がある話など、長々と聞かされても迷惑なだけだ。もっと短く、簡潔に話すべきだったと後悔しながら、須藤は舟を漕ぐ少年に頭を下げる。


 すると、少年は船首に頭を向けたまま、僅かに目線を須藤の方に向けて、小さく微笑んでから、かぶりを振った。


「大変ではなかったのですか?」


 そのまま少年は柔らかな声色で、そう聞いてくる。須藤は顔を上げ、少年の顔を見上げると、どのように言おうかと戸惑いながら、頭を掻き、小さく頷いていた。


「やはり、もう年も年でしたから、そこから新たな仕事というのはいろいろと苦労しました」


 元より外回りの多い仕事ではあったので、それなりに体力の部分で自信のあった須藤だが、新たに始めた清掃の仕事では使われる身体の部位が大きく違い、特に長時間、同じ姿勢で作業を続けることなどがとても辛く、最初の方は毎回、終わる頃には家に帰ることも難しい状態となっていた。


「ですが、仕事を変えたお陰で、時間はかなり取りやすくなったので、それまでは妻と話しながらも、実現させてあげられていなかった旅行などにも行けるようになりました」


 須藤がその時のことを思い出し、目を細めていると、それを見た少年が軽く微笑み、「それは良かった」と口にする。


「では、家族のために時間を作りたいという願いは叶えられたのですね」

「ですね」

「お子さんとかはいらっしゃらなかったのですか?」


 須藤の話には自分と妻との関係しか出てこなかったからだろう。少年は軽い疑問を何気なく呟いていた。その一言に須藤は少し表情を曇らせて、どのように話そうかと頭を悩ませ始める。


「もしかして、あまり触れない方がいい話題でしたか?」


 子供に関することで何かがあったと察したのか、少年はそのように言っていたが、須藤はかぶりを振る。決して、触れられたくないという話題ではないが、どこから話せば伝わるのかと思い悩むものではあった。


「子供はいるんですよ、一人息子が。別に死んだとかでもなく、今も元気ですよ。ただ……」

「ただ?」

「少し大きな喧嘩をしてしまいまして。それ以来、連絡を取っていなかったんですよ」


 須藤は苦笑いを浮かべ、恥ずかしそうに頭を掻く。大学を卒業し、都会の有名会社に就職した息子と喧嘩をしたのは、妻が倒れる数年前のことだった。家庭を顧みない須藤の様子を不満に思い、須藤の妻、つまりは母のことを思った息子と言い合いになり、それ以来、須藤は息子と連絡を取っていなかった。


 今もその会社で仕事をしているのか、住んでいる場所が変わらないのか、須藤は何も知らないまま、最初こそ少し心に引っかかっていたが、気づいた時には気にも留めないようになってしまっていた。


 ただし、そこにも変化があった。そのことを須藤の言い方から察したのか、少年が須藤の方を振り返り、僅かに首を傾げる。


「連絡を取っていなかった? 取ったということですか?」

「取ったというか、何というか……。恥ずかしながら、私は知らなかったのですが、どうやら、妻は息子と連絡を取っていたようなんですよ」


 そう言いながら、須藤は再び顔を赤らめながら、頭を掻いた。

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