第18話「昭和十九年末を目途とする戦争指導に関する観察(第三案)」
【前書き】(橋本正勝より)
橋本正勝、陸軍少佐である。
昭和十九年三月、東條閣下の参謀総長兼任の余波が、まだ参謀本部の廊下に冷たく漂っている頃、班長殿とわたくしは、麹町別館の一室で、夜を徹して、第三案の最終稿を、書き続けていた。
班長殿のペンの音は、いつもより、わずかに、強かった。盾を失われた班長殿のペンは、それでも、止まらなかった。むしろ――盾を失われたからこそ、あのペンは、いっそう深く、紙に食い込んだようにも、思える。
あの夜々のことを、わたくしは、終生、忘れぬ。
昭和十九年(一九四四年)、二月の終わり。
俺と橋本少佐は、麹町別館の一室で、第三案の最終稿の起案を、本格化させていた。
二月二十一日、東條閣下の参謀総長兼任が発表されてから、まだ十日と経っていない。
参謀本部の空気は、表面上、平静を装っていた。されど、廊下のあちこちで、低声の会話が、増えていた。「東條閣下が」「嶋田海相も」「杉山閣下は、どうなさるか」――。
俺は、それらの声を、すべて耳の外に置いた。
第三案。
昭和十九年末を目途とする、戦争終結の青写真。これを、紙の上で、完成させること。それが、いま俺に残された、唯一の闘いの場であった。
*
三月の上旬、ある夜のこと。
「班長殿」
橋本が、低く言った。
「第七章の冒頭、わが国の今後とるべき方策の項について、いかが処理いたしましょうか」
「読み上げよ」
「は」
橋本は、罫紙を持ち上げた。
「『有利なる場合は、本年夏秋の候、日独ともに敵の反攻に勝利を博し、もってソ連を日独側に抱き込み、次いで英米側より妥協和平を申し込ましむるが如き事態の進展を期す』」
俺は、深く頷いた。要するに――昭和十九年の夏か秋に、日独両国がそれぞれの戦線で大きな勝利を収め、その勢いでソ連を味方陣営に引き込み、英米のほうから「もう講和したい」と申し込んでこさせる、ということである。
「これは、九月案の骨格を、踏襲しておる。『一撃』を口にせざるを得ぬが、その先には、必ず、『ソ連抱込み』『対米英妥協和平』が、置かれている」
「は」
「橋本、その先を」
「『次は、決勝の結果、日独ともに不幸にして国防圏に破綻を生ずる場合においても、少なくとも敵戦力には相当の消耗を与えうべく、爾後、国力を策する余裕と、国民戦力結集の動機たらしめうべし』」
俺は、しばし、ペンを止めた。
最悪の場合――絶対国防圏が崩壊した場合の話である。その時には、せめて敵に大きな消耗を与え、その消耗の中から、戦後の国力再建の動機を、引き出さねばならぬ。そう書いている。冷酷であった。されど、これが、現実であった。
*
「橋本」
「は」
「次に、戦争終末方途の項目だ。書きつけよ」
橋本は、ペンを取った。
「『戦争終末方途を、大本営政府首脳部間において切り出す時機は、六、七月以降の戦争指導方策決定の際とし、和平の条件、和平端緒の大要は、両総長(大臣)、外務大臣の位において、腹を決定しおき、予め御上にも申し上げおくを要す』」
すなわち――昭和十九年の六月か七月以降に、終戦の話を、内閣と統帥部の首脳の間で、正式に切り出す。和平の条件と、最初の交渉の糸口は、両総長と陸相・海相、それに外務大臣の四、五人の腹の中で、あらかじめ決めておく。そして、そのことを、陛下にも、内々に、奏上しておく――。
「は」
「次に、独ソ和平が成り、ドイツが対米英戦のみに専念できる場合、わが国は、ソ連の仲介を活用して、米英との和平を斡旋させる」
「は」
「ドイツが単独で米英と和平してしまった場合は、機を失せず、ドイツを介して独ソ和平を斡旋し、その代価として、ソ連に、わが国と米英との和平を斡旋させる」
「うむ」
俺は、深く頷いた。最後の一句、結論である。
「『遅くも、四月中旬中に、大綱方針に関し御聖断を仰ぎ、次いで御詔勅の御下賜を俟って、直ちに軍官民一体となり、決戦完遂に邁進しうる如く、上司の英断を期す』」
御聖断。
この三文字を、紙の上に書き付けたのは、本作が初めてであった。
国体護持を絶対条件とする、ソ連仲介を介した対米英妥協和平。これを実現するためには――最終的には、陛下の御聖断を、仰ぐほかにない。一月四日の「危機克服説明」では、まだ書けなかった三文字が、いま、本案の結論として、紙の上に、降りた。
*
三月十五日、夜。
別館の机の上で、第三案の最終稿が、完成した。
「昭和十九年末ヲ目途トスル戦争指導ニ関スル観察(第三案)」
全八章。
第一、要旨。
第二、敵の戦争方式と作戦・戦術方式の観察。
第三、絶対国防圏確保の見透し。
第四、国力・戦力の今後の推移の観察。
第五、国民の士気と戦意、ならびに、わが影響下にある諸国の戦争協力に関する観察。
第六、ソ連の対日中立維持への期待度と、ドイツ健在の見込みに関する観察。
第七、今後の戦争指導に関する観察。
第八、結論。
俺たちが、これまで紙の上で、口頭で、断片的に積み上げてきた終戦構想のすべてが、この八章に、凝縮されていた。
ペンを置いた橋本の指は、わずかに、震えていた。
「橋本、ご苦労であった」
「いえ」
橋本は、深く一礼した。
「明日、わしが、真田第一部長へ届ける」
「は」
*
その夜、俺は、別館の机の前で、ひとり、夜更けまで、坐っていた。
第三案を、明日、真田部長へ届ける。されど――真田部長は、陸軍中央の主戦派の代表的人物のひとりである。九月案の折、俺と作戦課で激しくやり合った、あの真田穣一郎大佐。あの後、十月の機構改革で、第一部長(作戦部長)に、昇任していた。徹底抗戦の旗手である。
そして、その下に、もうひとり、避けては通れぬ男がいた。
服部卓四郎、陸軍大佐。作戦課長。
昨年、昭和十八年の十月、作戦課長として、参謀本部に復帰した男である。
服部の経歴は、複雑であった。陸士三十四期、陸大四十二期。ノモンハン事件の作戦立案者の一人として知られ、その後、開戦当初の作戦課長として、太平洋戦争開戦の決定に深く関わった。されど、昭和十七年、ガダルカナル戦の作戦失敗の責任を問われたが、東條首相(兼陸軍大臣)の信任厚く、陸軍大臣秘書官をされていた。その後、東條閣下の絶大な御信任のもと、昨年十月、作戦課長として復帰なされた。「徹底抗戦の鬼」の名は、参謀本部の中でも、つとに高い。
外面は、冷静沈着。話し方は、低く、抑制されている。されど、その内面の徹底抗戦への信念は、岩のように固く、いかなる戦況の悪化にも、決して、揺るがぬ――そう、もっぱらの評判であった。
俺と服部は、これまで、職務上の必要最小限の挨拶を交わすのみで、深い議論を交わしたことは、なかった。互いの距離を、互いに、測りかねていた。
第三案は、必ず、真田部長から、服部作戦課長へ、回される。それは、避け得ぬ。俺は、そう、覚悟していた。
*
翌、三月十六日、午前。
俺は、第三案の綴りを抱え、第一部長室の前に立っていた。
扉を、叩いた。
「松谷大佐、入りまする」
部屋の中、真田部長は、机に向かい、書類を見ておられた。お眼を上げ、俺を見、わずかに、唇を歪められた。
「松谷大佐、何用か」
「戦争指導班、本年三月十五日付の研究文書、『昭和十九年末ヲ目途トスル戦争指導ニ関スル観察』、第三案でございます。御参考に、お届けいたしまする」
真田は、手を伸ばし、綴りを受け取った。ゆっくりと、お繰りになる。
部屋に、紙のめくれる音だけが、響いた。
二十分か、三十分か。真田部長は、頁を、繰り続けられた。
やがて、お眼を上げ、俺を見つめられた。
「松谷大佐」
「は」
「趣旨は――大体、異存なし」
俺は、息を呑んだ。
「されど――」
真田の声は、低く、しかし明瞭であった。
「これを、印刷に附することは、不可」
部屋に、しばし、沈黙が落ちた。
「これは、紙の上で、回覧されてはならぬ。文書として、残されてはならぬ。貴官の手元にのみ、留めおけ。本案を、第一部の他の幕僚に、見せてはならぬ。これが、わしの、第一部長としての、命令である」
「拝承――いたしました」
俺は、深く一礼した。
*
扉を出ようとした俺の背に、真田の声が、低く、追ってきた。
「松谷」
「は」
俺は、振り返った。
真田部長は、机の上の綴りを、じっと、見つめておられた。お眼は、俺を見ておられぬ。
「貴官の腹案、内容には、異存はない」
「は」
「されど、この戦局下において、わしが、立場上、これを文書として残すことは、できぬ」
真田は、しばし、間を置かれた。
「わかってくれ」
俺は、深く、深く、頭を下げた。
「拝承いたしました、部長閣下」
真田は、わずかに、お眼を伏せられた。
俺は、部屋を出た。
*
廊下を歩きながら、俺は、しばし、足が、鈍った。
真田部長は、変わっておられる。
九月案の折の、あの激怒した真田大佐ではない。あの折、真田は、御自分の腹の底まで、徹底抗戦の信念で固められていた。
されど、いま、第一部長室の机の前で、俺の第三案を読み終えられた真田は――内容について「異存はない」と、お認めになった。これは、九月の頃には、絶対に、出てこなかった一句である。
半年。
二月二十一日の杉山閣下の御退任、東條閣下の参謀総長兼任、嶋田海相の軍令部総長兼任、トラック島空襲、絶対国防圏の動揺――この半年の積み重ねが、真田部長の腹の底を、確かに、変えつつある。
されど、真田部長は、第一部長として、「必勝の建前」を背負わされている。敗北を前提とする文書を、紙の上で残すことは、絶対にできぬ。それが、お立場である。
「わかってくれ」――。
あの一句を、俺は、深く、深く、胸に刻んだ。
真田部長は、内心において、ひとりの幕僚として、揺らがれている。されど、第一部長として、お役目を、果たさねばならぬ。お立場と、内心と、その狭間で、私情を抑え、ペンを、紙の上から、押しのけられた。
杉山閣下の「種子は土に埋めて護る」。あの比喩を、いま、真田部長もまた、御自分なりの形で、なぞっておられる。
*
午後、俺は、秦次長の部屋を訪ねた。
次長は、綴りを受け取られた。一頁、また一頁、ゆっくりと、繰られていく。
最後の頁まで、お読みになると、しばし、お眼を、お閉じになった。
「松谷大佐」
「は」
「真田第一部長から聞いておる」
「は」
次長は、続けられた。
「松谷大佐。明日、貴官、作戦課長室を、訪ねよ」
俺は、息を呑んだ。
「服部大佐は、すでに本案を見ておる」
「次長閣下――」
「然り。真田が腹心の服部に見せたのだ」
「拝承いたしました」
次長は、わずかに、お眼を、お伏せになった。
「松谷大佐、覚悟して、行かれよ」
*
次長室を辞した俺は、廊下を、ゆっくりと、歩いた。
窓の外、市ヶ谷台の三月の空に、薄雲が、流れていた。
明日、作戦課長室。服部卓四郎大佐。
あの男は、岩のような不動の徹底抗戦論者である。俺の第三案を、すでに、お読みになっておる。
俺の腹の底で、何かが、静かに、固まっていく音がした。
明日――俺は、服部大佐と、対峙する。
俺の第三案、土の下に埋め直されるか、それとも、土から掘り起こされて、火の中に投げ込まれるか――それを、明日、服部の口が、決めるであろう。
俺は、ペンを置いた机に戻り、ひとり、夜まで、坐っていた。
【後書き】(秦彦三郎より)
秦彦三郎、参謀本部次級次長である。
三月十六日の午後、松谷大佐から第三案の説明を受け、その夜、わしはひとり、次長室で長く考えた。
真田第一部長は、内容には異存がないと言った。されど、印刷不同意。これは、真田が、御自分の腹の底で、半年の戦況悪化を、確かに、噛みしめておられる証であった。
されど、真田は、本案を、服部作戦課長にも回した。これが、何を意味するか――わしは、しばし、判断を、留保した。
翌日、松谷大佐は、作戦課長室を訪ねる。服部大佐は、岩であった。あの男は、いかなる戦況の前でも、外面は、決して崩れぬ。内面は、ひたすら徹底抗戦の信念で、固められておる。
次回、松谷大佐は、御自分の生涯において、最も、重い一刻を、迎える。三月十七日の作戦課長室での対峙。第三案の余白に、服部大佐の太いペンで踊る、激しい手書き書込。「百年戦争ヲヤルベシ」「不同意」「猪突」――それらの文字と、松谷大佐との、対決――。
【本話初出の人物プロフィール】
服部卓四郎(はっとり・たくしろう、1901-1960)
陸軍大佐、参謀本部第二課長(作戦課長)。陸士三十四期、陸大四十二期。山形県出身。昭和十四年のノモンハン事件で関東軍参謀として作戦立案に関与。昭和十六年の太平洋戦争開戦時には参謀本部作戦課長として、開戦の作戦立案を主導。昭和十七年、ガダルカナル戦の作戦失敗の責任を問われ、東條首相兼陸相の陸軍大臣秘書官に左遷。されど東條英機陸相の絶大な信任の下、昭和十八年十月、作戦課長として参謀本部に復帰。陸軍中央における徹底抗戦論の中核。外面は冷静沈着・抑制されているが、内面は徹底抗戦の信念で岩のように固められており、いかなる戦況悪化にも揺るがない――との評判が高い。
【本話初出の用語】
「第三案」(だいさんあん)
「昭和十九年末ヲ目途トスル戦争指導ニ関スル観察」の通称。昭和十九年三月十五日、戦争指導班(松谷誠班長、橋本正勝少佐起草)が完成させた終戦構想の集大成。全八章。本作初の「御聖断」の三文字が軍内部正式文書に登場した歴史的文書。
「印刷不同意」
真田穣一郎第一部長が、第三案を松谷から受領した際の対応。「趣旨は大体異存なし」と認めつつ、「印刷に附することは不可」として、文書化・回覧を禁じた。陸軍中央の主戦派が、内心の動揺を抱えつつも、表面上は早期講和論を封じ込めるための、最大限の容認の作法。
「御聖断」(ごせいだん)
天皇の最終的な御裁可。本話で第三案の結論として、初めて軍内部正式文書に書きつけられた歴史的瞬間。本作後半、ポツダム宣言受諾の聖断、八月十四日の御前会議における最終聖断、への遥かな伏線。




