第45話:理由は
王城、執務室。
机の上には山のような書類。
国王となった夫は、その中心で黙々と目を通していた。
「陛下」
私が声を掛ける。
返事はない。
正確には聞こえていないのではなく、集中しすぎているのだ。
昔から変わらない。
私は小さくため息を吐く。
そして、机の端に置かれた冷めきった紅茶へ視線を向けた。
「またですか」
「……何がだ」
「紅茶です」
夫は視線だけを動かした。
それだけで答えになる。
忘れていたのだ。
「戦争より先に身体を壊されては困ります」
「そこまで大袈裟ではない」
「三日前も同じことを仰っていました」
ここ最近によくある沈黙。
負けを認めた時の顔だった。
昔ならあり得なかった。
誰も彼にこんな口を利けなかったのだから。
私は新しい紅茶を注ぐ。
夫はそれを受け取り、一口だけ飲んだ。
「……助かる」
「はい」
それだけで十分だった。
「北方との交渉は難航しております」
側近が報告する。
室内の空気が張り詰めた。
国境付近での小競り合い。
互いの非難。
軍備の増強。
あと一歩で戦争。
誰もがそう考えていた。
だが。
「軍は動かさぬ」
夫は即座に言った。
重臣達が顔を見合わせる。
「しかし陛下」
「向こうも同じだ」
静かな声。
けれど、揺らがない。
「本当に戦いたい者は、ここまで準備を見せびらかさない」
部屋が静まり返る。
私は黙って夫を見つめた。
若い頃なら見抜けなかっただろう。
けれど、前王妃様より教育を受け、夫と共に国を、民を背負ってきた今は違う。
彼は怒りで判断することはない。
何十万もの民を背負って、決断している。
紛れもない、民の王なのだ。
「王妃はどう思う」
突然、話を振られる。
重臣達の視線が集まった。
昔の私なら慌てていただろう。
けれど。
「陛下のお考えを支持いたします」
夫の目が僅かに細くなる。
「理由は」
「戦争になれば勝敗に関係なく民が傷付きます」
敵国から嫁いだ私を受け入れてくれた民たちを傷つけたくない。
私は一度言葉を切った。
そして続ける。
「陛下は、その未来を望まれておりません」
彼も、私と同じ想いだと知っている。
夫は何も言わない。
ただ――
僅かに笑った。
数ヶ月後。
戦争は起こらなかった。
国境は安定し、新たな交易路が開かれる。
城下は祝賀ムードに包まれていた。
街から溢れ出す歓喜の声は夜を賑やかにする。
でも、空中庭園には夫婦の平穏があった。
「お疲れ様でした」
私がそう言うと。
夫は小さく息を吐いた。
「終わったな」
「ええ」
夜風が花を揺らす。
ランプの光は丁度良く、庭園も夜空も暖める。
昔と変わらぬ景色。
けれど。
昔は婚約者だった。
今は違う。
「あなたを誇りに思います」
思ったままを口にする。
夫は一瞬だけ目を見開いた。
そして困ったように笑う。
「君には敵わないな」
その言葉に私も笑った。
「これからも、共に歩んでくれ」
「はい、貴方……」
月が静かに庭園を照らしていた。




