第39話:婚姻
翌日。
午前中から王子は訪れた。
ただし、今日は一人ではなかった。
執務用の机が持ち込まれ、侍従に続いて入室したのは、見慣れない文官だった。
厚い書類を抱え、私を見るでもなく、王子にだけ頭を下げる。
「殿下、こちらが例の件の草案です」
「置け」
短い指示で、机の上に書類が広げられた。
私はそれを見ていないふりをした。
だが、視界の端には確かに映っていた。
婚姻条項。
制度。
国家間の整理。
「……」
この部屋には、何も言う者はいない。
誰も説明もしない。
王子も、私に確認を取らない。
ただ当然のように、そこに“置かれている”。
文官は一礼し、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋にはいつもの沈黙が戻る。
僅かに空気が重く感じているのは、私だけ……。
王子は書類に視線を落としたまま、言う。
「問題はない」
それは、書類に対する評価なのか。
それとも、今この状況に対するものなのか。
判別はつかない。
私はようやく視線を上げた。
「本日はこちらで執務ですか」
「そうだ」
それだけ。
相変わらず、看病ではない。
では、なんなのか……。
「これは、何ですか」
自分でも驚くほど平坦な声だった。
王子は書類に目を落とすと、一拍だけ間を置く。
「必要な処理だ」
それ以上の説明はない。
それで終わりだった。
終わっていいはずの言葉だった。
だが、終わらなかった。
侍女のエリスが、静かに一歩前に出る。
「お嬢様」
その声は、いつもより低かった。
「すでに国家間での取り決めは進んでおります」
私は息を止めた。
王子は何も言わない。
ただ、書類の一枚をめくる音だけが響いた。
「お嬢さまの試験は、すでに終了しております」
エリスの声は淡々としていた。
感情ではなく、事実として。
「現在、お嬢様に残されている選択肢は――」
そこで一度、言葉が途切れる。
私はその先を知らない。
王子も、それを訂正しない。
ただ、こちらを見ている。
いつものように、処理として。
「……婚姻のみです」
静かに、部屋の空気が変わった。
それでも、何も壊れなかった。
それが一番、理解できなかった。
王子は立ち上がる。
「今日はここまででいい」
そう言って、書類を閉じる。
私は返事をしない。
できなかったわけではない。
する理由が、見つからなかった。
扉が閉まる。
いつもより少しだけ重い音だった。




