第38話:長居
王子殿下が訪れる回数は変わらない。
代わりに滞在する時間が延びた。
会話は少なめ。
間も大きく、会話と言えないものだった。
「長居して、よろしいのですか」
問う必要のないことを、口にしていた。
彼は視線を外さずに答える。
「問題はない」
それだけで、言葉は続かない。
それでも、お互いに視線だけは外れなかった。
会話はないのに、喉が渇く。
グラスに手を伸ばしかけた手よりも先に、王子の手が動いた。
水差しを傾ける。
「……」
注がれた水を、私は受け取った。
会話は生まれない。
……それでも、時間だけが過ぎていった。
侍女のエリスは介入しない。
それどころか、二人から距離を取っていた。
手に持つグラスが、僅かに揺れた。
……息が詰まる。
胸の奥が、締め付けられた。
「無理はするな」
手から溢れ落ちそうなグラスが奪われた。
胸の痛みと熱が、お茶会での行動を思い出させる。
あの時も、同じだった。
先に動くのは、いつもこの人だ。
……理解は、追いつかない。
「お嬢様!」
……その声で、ようやく王子の手が動いた。
理解する前に割り込まれる。
「すぐに医師を呼びます」
医師を呼びに走る音が遠ざかる。
王子は、その場を動かなかった。
医師の足音が近付く。
その気配に、王子は踵を返した。
やがて、執務室の前で足が止まる。
「問題はない」
そう結論付けた。
……元に戻ったはずだった。
だから――
以前と同じ距離を保つべきだった。
だが、その“以前”が思い出せない。
「どうかされましたか、殿下?」
侍従に声をかけられるまで、止まっていたことにも気付かなかった。
「何でもない」
扉を開けて、執務室に入れば皆が仕事に勤しんでいる。
戻ったことを知らせる歩みで、執務机に向かう。
あれだけ処理した書類が、朝の時よりも積み上がっていた。
どうやら、今夜も遅くなりそうだ。
王子の来訪は、特別な出来事ではなくなっていた。
誰も疑問を挟まないまま、侍女は当然のように椅子を用意する。
私はそれを止める理由を持たなかった。
いや、正確には――止めるという発想自体が薄れていた。
「今日は書類が多い」
王子はそう言いながら、当然のように部屋に残る。
それは報告でも説明でもなく、ただの事実だった。
私は頷きもせず、それを受け入れた。
沈黙が続く。
だが、それは以前のような緊張ではない。
何も起きない時間が、ただ積み重なっていく。
エリスは部屋の隅で、何も言わない。
いつの間にか、この空間から“違和感”だけが抜け落ちていた。
私はそれに気づくのが遅れた。
「……」
グラスに手を伸ばす。
王子の視線が、それに一瞬だけ重なる。
だが何も言われない。
奪われもしない。
ただ、静かに見ているだけだった。
その視線が外れた時、私はようやく気づく。
この人は、もう私を“観察していない”。
それなのに――
私はまだ、見られている気がしていた。
その日の面会は、それだけで終わった。
王子は何も言わずに立ち上がる。
私も何も言わない。
扉が閉じる音は、いつもより静かだった。




