第24話:出立
出立の朝は、静かだった。
屋敷の空気はいつもと変わらない。
侍女たちは淡々と動き、支度は滞りなく進んでいく。
――ただ一つ。
違うのは、それが“戻らない前提”であること。
「お嬢様、馬車の準備が整っております」
「ありがとう」
短く応じる。
「エリス、貴方までついて来ることはないのよ」
私は彼女の目を見て言った。
「今更、何を言われようと私はお嬢様についていきます」
覚悟が決まっている瞳。
私と同じ、強さの瞳だった。
「……そう」
何を言っても無駄。
貴方はやはり合格ですわ。
心の中で呟く。
振り返り、身だしなみを確認する。
鏡の中の自分は、いつも通りだった。
乱れはない。
感情も、もう表に出ていない。
完璧な令嬢。
――ええ。
最後まで、それで結構ですわ。
私はひとつ呼吸をする。
振り返らない。
部屋を出て、廊下を進む。
使用人たちは皆、頭を下げていた。
誰も声をかけない。
かけられない。
その沈黙が、すべてを物語っている。
「シャルロット……」
唯一、声を掛けてきたのは両親。
母は静かな涙を流しながら、私を優しく包む。
「シャルロット、不甲斐ない父ですまない」
父も母共々、私を大きく両腕で包む。
だが、出立の時間は迫る。
「ここまで、私を育ててもらい感謝しております」
母は立っているのもやっとなのか父に掴まっていた。
「お二人とも、どうかお体にお気をつけてお過ごしください」
ついに母は声を我慢できずに泣き崩れた。
私はその姿を目に焼き付けて、玄関ホールに出る。
扉の向こうには、馬車。
そして――
「……遅いわよ」
聞き慣れた声。
足が、わずかに止まる。
視線を向けると、そこには。
唯一、親友と呼べるイザベラが立っていた。
その隣に、もう一人。
あの正しい令嬢。
「来ないと思っていましたわ」
私は、平静な声で言う。
「来ないわけないでしょ」
即答だった。
間もなく。
迷いもなく。
……イザベラらしいですわね。
「見送りくらい、させなさいよ」
その声音は、いつもより少しだけ強い。
怒っているのか。
それとも――
私は、軽く肩をすくめる。
「お好きにどうぞ」
「ほんと、そういうところよ」
親友が小さく息を吐く。
けれど、それ以上は言わない。
言えない。
分かっているから。
私が止まらないことを。
だから、それ以上続かない。
誰も、すぐには言葉を選べない。
その中で。
「……ご無事で」
静かな声が響いた。
もう一人の令嬢。
私が正しさだけでは足りないと、不合格にした。
あの子だった。
私はそちらを見る。
彼女は、まっすぐに私を見ていた。
「あなたなら」
言葉を続ける。
「どのような場でも、崩れることはないでしょう」
彼女からの断言。
彼女なりの信頼。
そして――距離。
「ですが」
躊躇い。
「それでも」
ほんのわずかに、言葉が揺れる。
「どうか、ご自身をお見失いになりませんよう」
私は、わずかに目を細めた。
……面白いことを言いますのね。
「見失う、ですか」
「はい」
彼女は頷く。
「役割ではなく」
静かに。
「あなた自身を」
じっと見つめられる。
その言葉の意味を、測る。
……なるほど。
この子は最後まで、“正しい”のね。
「ご心配には及びませんわ」
私は、穏やかに微笑む。
「私は常に、私ですもの」
それが答え。
それ以上でも、それ以下でもない。
彼女は、何も言わなかった。
ただ、静かに一礼する。
納得したのか。
それとも――
その時。
「ねえ」
親友の声が、割り込む。
今度は、少し低かった。
「本当に、行くのね」
認めたくない確認。
分かりきったことを、あえて聞く。
私は、そちらを見ない。
「ええ」
それだけ。
「……そう」
短い返事。
けれど、その後が続かない。
珍しいことだった。
いつもなら、何かしら言うのに。
イザベラの沈黙が、呼吸が重い。
だが、嫌ではない。
そして。
「――バカ」
小さく、零れた。
私は、わずかに視線を向ける。
親友は、笑っていた。
いつも通りに。
けれど、目だけが違う。
声に出せば、崩れると分かっていた。
「ほんと、どうしようもないわね」
彼女は肩をすくめる。
「でも」
一歩、近づく。
「それでいいんでしょ」
問いではない。
確認でもない。
親友としての、理解だった。
私は、ほんのわずかだけ。
間を置いて。
「ええ」
頷く。
それで、十分だった。
「……じゃあ、いいわ」
親友は、それ以上何も言わなかった。
引き止めない。
泣きもしない。
ただ。
「行ってきなさい」
いつも通りの調子で、送り出す。
それが、彼女なりの選択。
私は、静かに一礼する。
二人に向けて。
「行ってまいります」
形式的な言葉。
けれど、その中にすべてを込める。
踵を返す。
もう、止まらない。
扉へ向かう。
一歩。
また一歩。
外の光が、近づく。
その直前。
「――またね」
背後から、声がした。
足は止めない。
振り返らない。
ただ。
ほんのわずかに。
「……ええ、またね」
“またね”と、ありもしない未来を口にした。
小さく。
それが、最後だった。
次に会うことがあったら。
その時、覚えていたなら。
貴方のことも親友と呼んでいいかしら。




