第19話:夜
◇――騎士の誓い――◇
夜は、静かだった。
王城の近くにある騎士団の宿舎。
昼間の喧騒が嘘のように、人の気配は薄い。
小さな窓から差し込む月明かりだけが、室内を淡く照らしていた。
騎士は、ひとりで立っていた。
明かりも灯さず、ただ窓の外を見ている。
――出征は、明日。
考えるべきことは、いくらでもある。
だが今は、何も考えていなかった。
ただ、静かに呼吸を整えている。
その手にあるのは――扇子。
あの時、渡されたもの。
ゆっくりと、開く。
慣れぬ手つきのはずなのに、妙に丁寧だった。
壊してはならないものだと、本能で理解しているかのように。
月の光が、白く紙面を照らす。
その時。
ふと、指先が止まった。
――刻まれている。
ごく小さく。
意識しなければ見落とすほどの位置に。
だが確かに、それは存在していた。
家紋。
エーヴェルハルト公爵家の証。
騎士は、しばらく動かなかった。
ただ、それを見つめる。
月明かりの中で。
「……やはり」
小さく、息を吐く。
疑いはなかった。
ただ――確信に変わっただけだ。
幼い日の記憶。
手の届かない場所にいた“誰か”。
その輪郭が、ようやく重なる。
「あなた、だったのか」
声は、ほとんど音にならなかった。
届かせるつもりもない。
扇子を、そっと閉じる。
その動作ひとつに、無駄はない。
そして――
騎士は、静かに片膝をついた。
硬い床に、わずかな音が落ちる。
誰もいない。
見ている者も、聞いている者もいない。
それでも。
剣の柄に手を置き、頭を垂れる。
騎士としての礼。
だがそれは、主君に向けたものではない。
命令でも、義務でもない。
ただ一人。
たった一人に向けたもの。
「――必ず」
短い言葉。
それだけで、十分だった。
守る、とも。
帰る、とも。
言葉にはしない。
する必要がない。
騎士は、ゆっくりと立ち上がる。
扇子を胸元へと収めた。
月は、変わらずそこにある。
遠く。
手の届かない場所に。
けれど――
もう、見失うことはなかった。
――◆月の祈り◆――
夜は、静かだった。
屋敷の最上階。
誰も近づかぬバルコニーに、私はひとり立っている。
風は穏やかで、空は澄んでいた。
雲ひとつない夜。
満ちた月が、すべてを等しく照らしている。
――綺麗ですわね。
誰に向けるでもない言葉が、胸の奥に落ちた。
手には、何もない。
いつもあるはずの重みが、そこにはなかった。
無意識に指先が動き――
何も掴めないことに、ほんのわずかに止まる。
私は、その手を静かに下ろした。
月を見上げる。
遠い。
手を伸ばしても、届かない。
……ええ。
分かっておりますわ。
それでも。
ゆっくりと、目を閉じる。
胸の前で、指先を重ねる。
祈りの形。
教えられた通りの所作。
けれど――
そこに込めるものは、誰にも教わっていない。
何を願うのか。
何を望むのか。
その答えを、私はまだ知らない。
ただ。
静かに、息を吐く。
胸の奥に残る、わずかな熱。
言葉にならない感覚。
それを、そのまま手の中に閉じ込めるように。
――どうか。
その一言だけが、形を持つ。
けれど、その先は続かない。
続けてしまえば、願わない気がした。
私は、ゆっくりと目を開ける。
月は、変わらずそこにあった。
遠く。
触れることのできない場所に。
それでも――
確かに、同じ光の下にいる。
「……」
何も言わない。
言えない。
ただ、もう一度だけ月を見上げる。
それで、十分だった。
やがて私は踵を返す。
静かに、何事もなかったかのように。
扉の向こうへと戻っていく。
夜は、まだ終わらない。
けれど――
その祈りが、誰にも知られることはなかった。




