第18話:答え
騎士の瞳が、わずかに細くなる。
――その一瞬だけ、迷いが見えた。
「……お答えいたします」
静かな声だった。
「幼い日に、約束を交わした相手は――」
彼は一度だけ言葉を区切る。
けれど、視線は逸らさない。
「あなたです」
応接室の空気が、音を失った。
紅茶の湯気だけが、何事もないように揺れている。
私は――ただ、彼を見ていた。
「……はっきりとは、覚えておりませんわ」
自分でも驚くほど、穏やかな声だった。
騎士は、わずかに目を伏せる。
だが、すぐに顔を上げた。
「構いません」
短い一言。
その声音には、揺らぎがなかった。
「あなたが覚えていなくとも」
彼は続ける。
「私にとっては、それで十分でした」
胸の奥で、何かが軋む。
――懐かしさにも似た、痛みが。
けれど、その正体を言葉にすることはできない。
「……なぜ、そこまで」
気付けば、問いが零れていた。
試験官としてではない。
ただの、疑問として。
騎士はわずかに息を吐いた。
「それが、私のすべてだからです」
静かに、断言する。
飾りも、誇張もない。
ただの事実として。
私は手をテーブルの下で強く握った。
開くことも、閉じることもできずに。
「……そう」
それだけを返す。
それ以上は、続けられなかった。
沈黙が落ちる。
先ほどまでの緊張とは違う、重い静けさ。
その中で――
「失礼いたします」
扉の向こうから、控えめな声が響いた。
返事をするより早く、扉が開かれる。
入ってきた侍女の表情は、硬い。
「至急のご報告がございます」
その一言で、空気が変わる。
「申し上げます。ご当主様より急使が――」
嫌な予感が、胸を掠めた。
「隣国との戦が、決定いたしました」
言葉が、落ちる。
逃げ場もなく。
「並びに――」
侍女は一瞬だけ言葉を詰まらせる。
「本日付で、騎士団より騎士殿には出征命令が下されております」
静寂。
先ほどとは違う、現実の重みを持った沈黙。
騎士は、わずかに目を閉じた。
そして――すぐに開く。
「……承知した」
短い応答。
そこに迷いはない。
ただ、決まったことを受け入れる声音。
私は立ち上がる。
自分の足で立っている感覚が、やけに遠い。
「……少し、お待ちなさい」
それだけを告げて、踵を返す。
引き止める理由は、どこにもない。
それでも、足は止まらなかった。
戻った時、彼はそのままの姿勢で立っていた。
微動だにせず。
まるで最初から、そうであったかのように。
「……これを」
私は手にしていたものを差し出す。
それは扇子だった。
いつも私が使っているもの。
「持っていなさい」
騎士の視線が、わずかに落ちる。
「……命令、ですか」
「いいえ」
即答する。
「では?」
私は胸の前で手を組む。
言葉を選ぶ。
試験官としてではなく。
公爵令嬢としてでもなく。
「――忘れないためのものです」
何を、とは言わない。
言えない。
騎士は、ゆっくりとそれを受け取った。
丁寧に。
壊れ物でも扱うかのように。
彼は言う。
「……必ず」
それ以上は、続かなかった。
続ける必要がないとでも言うように。
でも、私には確かに聞こえた。
彼の目を見たまま、頷く。
「ええ」
それだけで、十分だった。
それ以上を交わせば、壊れる気がした。
「……行ってらっしゃい」
最後の言葉は、驚くほど穏やかだった。
騎士は一礼する。
完璧な、騎士としての礼。
そして、背を向けた。
扉へと向かう。
その歩みは、迷いなく――
止まらない。
扉が閉まる。
――それは、あまりにもあっけない音だった。
私は、そこに立ち尽くす。
扇子のない手が、やけに軽かった。
そして――
何も、言えなかった。
――引き止める言葉を、私は持っていなかった。




