美亜 悪夢
薄暗い空間にいた。見回しても、黒い霧のようなものが辺りを漂っているばかり。美亜以外は他に誰もいない。
——何だろう、ここ。
理由はわからないが、いると不安になってくる場所だ。寒いわけでもないのに、背中もぞくぞくと悪寒がし始めた。何か得体のしれないものが今にも襲い掛かってくるような気がする。
——逃げよう。
どこに行けるのはわからないが、ここにはいたくなかった。何もない空間に向かって走り出す。
しかし、すぐしないうちに足が止まった。
濃い闇の中から、黒い人影がぬうっと立ちふさがったからだ。
「あなたは……」
思わず後ずさる。
現れたのは、黒いフーディーを着た男だった。美亜に話しかけるでもなく、仁王立ちした男はぶつぶつと何かを呟いている。
何と言っているのかはわからない。何語なのかも計り知れなかった。
「何、してるんですか?」
美亜の静かな問いかけにも男は答えない。光のない目で美亜を見つめながら、ただ訳のわからない言葉を吐き出し続けるばかり。
その声を聞いているだけで、心が不安になっていく。
——逃げないと。
きっとここは危険な場所だ、美亜の本能はそう叫んでいた。
「ははっ……」
誰かが笑うような声が聞こえた。
「あはははっ……」
さっきよりもはっきり聞こえたそれは、人を小ばかにする笑い声だった。
気配を感じて、辺りを見回す。
左を見れば、誰もいなかった場所からぼんやりとした霧のようなものが立ち込め始めている。それは徐々に人の形になっていき、一人のセーラー服の少女になった。
「自分だけ良い子ちゃんでいたいんだろ? そういうの、偽善者っていうんだよ」
霧は島田さんの姿になり、美亜を嘲った。あの三人の中のリーダー格だった少女だ。
「お前みたいな、良い子ぶるようなやつが一番嫌いなんだよね」
右手に現れたのは、田山さんだ。彼女に睨まれると、いつだって足がすくむ。
「自分だけ正義の味方気取り? どうせ春川のことなんかなんとも思ってないくせにさあ」
背後に立っていた三田さんはせせら笑いながら、嫌いな人間を皮肉るのがいつも好きだった。
あはははは、と三人分の嘲笑が美亜を取り囲んでいた。そしてその間も、男は訳の分からない言葉を呟き続けている。
「お願い、もうやめて……」
ぐわん、ぐわんと揺らぎ始めた意識の中、果たして自分はその言葉を言えただろうか? 美亜にはわからなかった。
*
「みあみあ、大丈夫そう?」
心配そうな流奈の顔が、横から覗き込んでくる。
都内S区の路上、曇り空の中でわずかに差し込む日の光がまぶしい朝だった。
「——はっ、はい。大丈夫です」
そう言って微笑むも、気分はいつもよりすぐれない。正直に言うわけにもいかないが。
「目に隈できてるよ? もしかして、夜眠れなかったの?」
言われてぎくりとする。流奈はのんびりしているようで、観察眼が鋭い。
「それが、変な夢を見ちゃいまして」
「どんな?」
「内容までは思い出せないんですけど……」
だが全身に汗をかくぐらいの緊張と恐怖で目が覚めたことだけは確かだ。
「そういうときもあるよね。これから練習だけど、無理しないようにね」
「はい、ありがとうございます」
流奈の言う通り、これからダンスの自主練が始まろうとしている。今は二人でそのスタジオに向かう最中だ。
「まずはおやつ買って気分上げてくか~」
ダンススタジオ近辺のコンビニに立ち入る。
美亜はいつも食べているものにすぐ決めたが、流奈はどれにするか悩んでいる。
「えーっとね、このスライムみたいな食感のグミも良さそうなんだけど、今日は王道の気分だからなあ……よし、これにする! 並んでくるね!」
結局スタンダードなフルーツ味のグミを手に取った流奈は、美亜にOKのハンドサインを見せてレジ列へ向かった。
店の入口で先輩を待つ間にすることは、現代人らしくSNSチェックだった。「金剛寺美亜」公式アカウントでログインする。
指で画面をスクロールすると、フォローしているアカウント、していないアカウントも含め雑多な呟きがタイムラインを流れてくる。
——あっ、これこの間もらったやつだ。
「広告」と称された呟きのひとつとして、「F&Eエレメント」公式アカウントのものが流れてくる。
『あの飲む炭サプリ・ドリチャコがついにドリンクタイプになって登場! 抹茶とコーヒーの2つのフレーバーで飲みやすい!』
以前、楓花と共に出演したドラマ撮影で「F&Eエレメント」の社長が直々に差し入れをくれた一品だ。あのときは発売前のものだったが、すでに一般発売が始まっているらしい。
——結局あれ、飲めなかったな。
サンプルのドリンクをもらったときのことを思い出す。楓花と共にドリンクをもらった直後、よくわからない理由のまま因幡マネージャーに没収されてしまい飲むことのできなかった。
「お待たせ~、行こっか」
ぼんやりと過去を思い出しながら画面を眺めていると、エコバッグを持った流奈が戻ってきた。
「何見てたの?」
「これです。F&Eエレメントの新商品だそうです」
流奈にそれまで見ていた画面を見せる。
「……あー、ドリチャコね、知ってる。あれ、結構売れてるんだ」
そっけなく言った流奈はそれ以上何も言わなかったが、眉間に少しだけ皺が寄ったことだけが気になった。
*
「……いちにさんし、にいにさんし。そのまま、そのまま~」
鏡張りのダンススタジオでは、流奈が一定のリズムで手拍子を繰り返す。
その手拍子に合わせて、美亜はダンスの振り付けを懸命に踊っていた。
グループで一番ダンスが得意な静やダンスのインストラクターからは「足元の振りがおろそかになる」弱点をよく指摘される。自分の弱点を克服できるように意識しながら、丁寧に踊る。
「いい感じ~、最初より全然良くなってるよ!」
「はあ、ありがとうございます……」
「やっぱり、みあみあは出来る子~!」
べた褒めする流奈に頭をわしわし撫でられながら、一息つく。練習で乾いた喉に流し込んだ麦茶は、いつも以上に美味しく感じられた。
「ライブ本番まであと2週間もないねえ」
つるつるとした床の上に座った流奈が、のんびりと呟いた。その手には、練習前にお菓子と共に買ったおにぎりが握られている。
「ばんかみ」2枚目のアルバムが発売されてから一か月ほど経つが、売れ行きは好調だと因幡からは聞かされている。発売記念のライブも満席になる可能性の方が高いらしく、「成功させなくては」という美亜のやる気に拍車をかける。
「ここまで、あっという間でしたよね」
「それな! なんかがむしゃらに走ってたらいつの間にか来てたって感じー」
「同感です」と流奈の言葉に何度も頷く。
「ばんかみ」というグループで、子供のころから憧れていたアイドルになってから一年以上が経つ。大変なことも多いが、ここまで来られたことを誇りに思っている。
2週間後のライブでは、アルバムに収録された美亜のソロ曲を披露する。ダンスの振りは難しいが、成功させるためにも仕上げていかなければならない。
「……そろそろ、復活しますかー」
食べ終わった流奈が伸びをしながら立ち上がったとき、練習場のドアが開いた。
ここを借りていたのは自分たち二人だけのはずだ。誰だろう、と入口に目を向けて全身が凍り付く。
「こんな無駄なことやってたんだ」




