咲堂樹里 決戦
苦しい、息が苦しい。
だけどここは撮影場所だ、演技は続けなくちゃ。今のあたしは咲堂樹里ではなく、和泉小夜だ。
「ああ、苦しい。苦しいよお、うええええ」
すぐ隣、もう一人のあたしが呻き、泣いている。
えづいてしまいそうなぐらい、咳が止まらなかった。
「苦しいんだね」
声が聞こえた。
同情するような目であたしを見る、宮園楓花だった。
「誰のせいで、こんな目に遭ってると思ってるの?」
そう言いたかったけれど、絶えず咳も涙も止まらない身体では言えるわけがない。言葉はあたしの喉の奥と心の中に吸い込まれていった。
下を向くと、茶色いリノリウムの床の上に黒い枝のようなものがいくつも落ちていた。
——消えていく。
ことり、ぐしゃり。あたしが咳をするたびに、口から赤い花びらと黒い破片たちがこぼれていく。
あたしにしか見えていないのだろう。あたしの口から出て、床に落ちていく木の枝に誰も目を向けない。
落ちた木の枝からは、硝煙のように黒い煙が立つ。ようやくわかった。あいつが言っていた「植物」とはこのことだ。今度はあたしにも見える。
「いやだ、いやだ、いやだよおおお」
叫び声をあげる煙はやがて集まり、一人の人間になった。
顔も髪も背丈も全てがあたしと同じ、もう一人のあたしだ。
「なになになに、何なのこれ消えたくないよおおお!」
もう一人のあたしの姿は少しずつほころび始めていた。彼女の全身からは今もシューシューと黒い煙が出ている。
砂でできた城が砂粒を散らしながら崩れるように、あたしの隣に立つ彼女の輪郭が消えていく。
それを見ているだけで悲しかった。流したくないのに、涙が止まらない。
いけない、こんなに泣いてはいけないのに。メイクも崩れてしまうし、ぐしゃぐしゃの酷い顔になる。
「こうなったらやりなおしだもういちど戻ってやる」
黒い煙をあげながら、もう一人のあたしはこちらを向いた。
かっと見開かれた目がこちらを睨む。離れようとしたけど、身体は固定されたように動けなくなった。
荒い息をしているあたしの口元に、黒い枝がすうっと伸びてくる。それはもうひとりのあたしの手だったものだ。
「うっ……」
ぞわぞわ、ぞわぞわとあたしの口の中に入ってくる枝は、喉の奥へと入り込む。
喉に触れることはないけれど、お腹の辺りがずっしりと重くなってくる。指を喉に突っ込んで吐き出したいけど、身体はピクリとも動かない。苦しいのに口も閉じられない。
「咲堂さん、大丈夫!?」
ストッキングをまとった膝が、すとんと地につくのを感じた。監督の悲痛そうな声が、現実でないもののように聞こえた。
全身が鉛のような重さに侵されていく。あたしはこのままどうなってしまうんだろう?
「このままひとつになろう、あたしもあたしなんだから」
これがあたしの業なんだろうか。
「人を呪わば穴二つ」と言う言葉を思い出す。
同業者に嫉妬して、憎んで、呪った。
その結果、全てはあたしに返ってきた。
——助けて、誰か。
だけど、誰が助けてくれるっていうの?
「ねえ」
目と鼻の先で、爽やかな声がする。
この世で一番憎んだ彼女があたしを見ていた。あれだけ嫌った顔、声の持ち主が、咳も涙も止まらないあたしをじっと見つめている。
見たことのない眼差しをしていた。
スタッフたちに見せる爽やかな目つきでも、少年顔負けの響を演じていたときの涼し気な目つきでもない。
あたしの中を射抜くような、鋭い目が突き刺さる。
「宮園さん、何その手!?」
ざわつく周囲の視線は彼女の手元に集まっているように見えた。どこからか、桃の甘い匂いが漂ってきた。
「こっちを向いて」
彼女の白くて細い指が、あたしの顔に伸びる。
「せっかくの美味しいジュースだったのに、こんな思いをさせてごめん」
「あっ……」
温かい指があたしの顎に触れた。だらしなく口が開いているであろう顔を、そのまま前へと軽く引っ張る。
「顎クイだ!」と誰かがなぜか嬉しそうに叫んでいるのが聞こえた。
「だけどもう大丈夫、今助けてあげるから」
何もかもが近かった。斜めにカットされた艶やかな黒い前髪も、あたしを見据えて動かない黒い瞳も。
あたしのものと重なりそうになる桃色の唇も。
——これって、まさか。
「少しじっとしていて」
温かい吐息が耳元で囁いた。
途端、宮園楓花の空いた手があたしの口元に向けられる。
甘い桃の香りがするのは、その手からだった。
しなやかな指先は開いたままのあたしの口元へ伸びる。
「宮園さん、何してるの!?」
監督の声だろうか。叫んだその声にも、彼女は動じなかった。
ぽきり、と軽い音がする。
幾ばくもしないうちに、その指はあたしの口元で動く黒い枝を掴んだ。口の中で動いていたものが離れていく感覚。
「何よこれ、いやだいやだいやだ」
黒い枝——もとい腕を掴まれたもう一人のあたしが喚く。変わらずその腕からは、黒い煙のようなものがたちこめていた。
もう一人のあたしに向けられた、彼女の桃色の唇がゆっくりと動く。
「もうこの人から離れて」
涙で視界はうるんでいたけど、はっきりと見えた。
そのまま彼女は、その腕を握りつぶした。ぼきりと軽くないものが折れるような音を聞いた。
いやあああああああ!
折られた腕から入った崩壊は、肩へ、首へ、頭へ、全身へあっという間に回っていく。
そうしてもう一人のあたしは消えていった。
「咲堂さん!」
「誰か、救急車!」
終わったんだ、というのを感じていた。
意識が遠くなった。




