楓花と美亜 真実
ギターをケースにしまったとき、コンコンと控えめな音で楓花の楽屋のドアはノックされた。
「はーい、どなたですか?」
「楓花先輩、私です。金剛寺美亜です」
閉じたドアの向こうからは、いつも通り控えめな声が聞こえてきた。
「美亜か。どうしたの?」
ドアを開けた先には、ほんのりと顔を青白くさせた美亜が立っていた。
「忙しいときにすみません。今、弾き語りの練習されてましたよね?」
「うん、してた」
「すごくお上手でした! でもそれも当然ですよね。先輩、ここ一か月ぐらいずっと練習されてましたし」
「そう言ってもらえると、苦労が報われるよ」
響が小夜のために作った曲として、「おとおうじ」最終回で楓花は劇中歌「名前のない花」歌う必要がある。美亜が来る直前まで、楓花が弾いていたのはその曲だった。
アイドルという仕事をやっている以上、歌は普段から練習しているものの、アコースティックギターは高校の音楽の授業以降触れたことがなかった楓花にはかなりの時間を要した。
しかし練習を続けたおかげで運指も体にしみ込み、歌と共に演奏することもできるようになっている。努力は実を結ぶとは、このことなのだろう。
「だけど、手のお怪我は大丈夫なんですか?」
美亜の心配そうな視線が、左手に刺さる。その手でギターが弾けるのか、という心配をしているのだろう。
「問題ないよ。包帯ももう取れたし」
包帯も絆創膏もついていない左手の平を、美亜に振ってみせる。
思わぬカッターナイフでの負傷から数日経った現在だが、傷口は浅くもう閉じていた。よっぽどのことがなければ、傷口が再び開くこともないだろう。
「痛くないんですか?」
「まあ、ちょっとは痛いけど。だけど、撮影のためにギターの練習する方が楽しいし」
「そうなんですか……!」
そう答えると、美亜は少しだけ目を輝かせた。
「それで、伝えたいことはそれだけ?」
「……あっ、いえ。別件でどうしてもお伝えしないといけないことがありまして」
「そうなんだ、じゃあ中に入りなよ」
「ありがとうございます。お邪魔します」
二脚あった椅子のひとつに美亜を座らせてから、楓花は尋ねた。
「——えっと、あんまり秘密はいけないと思うんですけど、他の人には言わないでほしい話なんです」
緊張しているのか、閉じた膝の上に伸ばした両手を載せた美亜はごくりと大きく喉を鳴らした。
「——わかった、誰にも言わないから聞かせて」
「秘密」と言われたせいか、自然と楓花の声も小さくなった。
「はい……本当はもっと早く言わないといけなかったんですけど」
楓花の背後のロッカーをちらりと見てから、美亜は話し始めた。
*
忘れもしない。その日はドラマ「おとおうじ」の撮影がクランクインした日の午後だったことを、金剛寺美亜は記憶している。
——主演の二人、かっこよかったなあ。
同じアイドルグループの仲間でもあり、先輩でもある宮園楓花の演技を思い出しながら、美亜はスタジオの廊下二階を歩いていた。
その日の撮影はすでに終わっていたが、楽屋に一旦戻ろうとしている途中だった。メイク直しの小物を取りに行く目的があったからだ。
——明日は自分の出番があるし、頑張らないと。
「あれ?」
二階の廊下には、出演者の楽屋のドアがずらりと並ぶ。通り過ぎた楽屋のうちの一室を見て、足がぴたりと止まった。
どこのドアにも出演者名の書かれたプリントがドアに掲示されている。美亜の視線の先には「『乙女の園の王子』奥屋敷響役 宮園楓花様」とあった。
ドアは微かに開いており、中の風景が少しだけ見えた。中に誰かいるのだろう。
——楓花先輩、いるのかな?
少し不思議に思った。
今の時間であれば楓花は一階の撮影現場にいるはずだと思っていた。美亜が楽屋に向かおうとするときも、楓花は台本を手に監督たちと話をしていたからだ。
しかし、美亜はそれまでに楓花とはすれ違いもしなかったが。
——ああ、エレベーターを使ったのかも。
頭を軽く巡らせるうちに、謎が少し解けた。
美亜が使った階段の反対方向には、楓花がいる撮影現場からすぐ乗れるエレベーターがあった。楓花はそれを使って美亜より一足先に、自分の楽屋に辿りついたのかもしれない。そして中に入るも、ドアを閉め忘れたのだろう。
「楓花先輩、失礼します」
そう言おうとして、わずかに開いたドアの隙間に目を当てる。
出ようとした挨拶は、声が枯れて出なかった。
中に宮園楓花はいなかった。
開きかけたドアの向こう、部屋の奥に設置されたアイボリーのロッカーの前に楓花でない誰かが立っている。楓花のものであるはずのロッカーの扉を堂々と開け、何かをいじっている。
——誰だろう?
こちらからは、茶色い髪を背中まで伸ばした姿しか見えない。
はやる心臓の音と共に、美亜は頭を巡らせた。
「ひっ……」
誰かがわかった。途端、喉が小さく震えて情けない声が出た。
息を呑む声が向こうにも聞こえたのか、侵入者——咲堂樹里はゆっくりと振り向いた。
美亜の方に細められたアーモンド形の目の奥で、ぎらりとした光が輝く。
「……見たね」
こつ、こつ、と足音を鳴らしながら、咲堂はゆっくりと美亜に近づいてくる。
——逃げなきゃ。
——逃げて、楓花先輩に伝えなきゃ。
そう思っているのに、美亜の身体は固められてしまったように動かない。
「絶対に誰にも言うんじゃないよ」
瞬き一つせず、美亜を見据える咲堂は言った。
「言ったら、あんたも同じ目に遭わせてやる」
ひひっ、と咲堂樹里はせせら笑った。口元は笑っているのに、その目は一切笑っていなかった。
それからどれだけの時間が経ったのか。少しの間、美亜の記憶は抜け落ちている。
気がついたときには、誰もいなくなった楓花の楽屋の入口の脇で、震えながらしゃがんでいた。
*
「……それが撮影初日にあったことです」
話を終えた美亜は、深く息を吐いた。膝の上に置いた細い両腕は震えているように見えた。
「話してくれてありがとう——すごく怖い目に遭っていたんだね」
気づけなくてごめん。素直にその言葉が出た。
思い返せば、美亜が咲堂樹里のたくらみに出くわしたのは、楓花が左手を怪我する前のことだ。
左手を怪我した楓花を見た美亜は真っ青な顔で震えていたが、流血を見てショックを受けていた以外に、咲堂のことを思い出していたのだろう。
「——楓花先輩、本当に、本当にごめんなさい!」
おもむろに立ち上がった美亜は勢いよく頭を下げた。
「わ、私、もっと早く、このことを楓花先輩に言うべきでした……! なのに、私、自分のことばかり考えて、言うことができなくて……」
美亜は、泣きそうな顔で下唇を噛んだ。
「まあまあ、そんなこと考えなくていいから——ほら、大丈夫だから座って」
楓花に促され、再び腰を下ろす美亜。
「仕方がないよ。わたしが美亜だったとしても、『言ったら同じ目に遭わせる』なんて言われたら黙ってるしかできないと思う」
「……それでも、すぐに言わないといけなかったと思います。咲堂さんが楓花先輩にしたことは、いけないことです。決して許されることじゃありません。こんな言い方をして咲堂さんには申し訳ないですが、気を付けてほしいんです」
そう言ったあと、美亜は何かに気づいたように「あっ」と声をあげる美亜。
「このことを言ってしまったことで先輩に不快な思いをさせたり、迷惑をおかけしてしまうかもしれませんよね……そこまでは考えてませんでした、ごめんなさい……」
「あはは、それでも教えてもらえて良かったよ。これで美亜の気は晴れたと思うしさ」
「そんな、私の気が晴れるだけじゃ……」
「いやいや、言いたいことは言わなきゃダメだよ。こういうこと、ずっと心に隠してたら苦しいでしょ?」
そう問うと、少し間を空けたが美亜はこくりと頷いた。
「美亜は普段おとなしいようでいて、ここぞというときに正義感があるよね。そういうところ好きだよ」
楓花が褒めると、美亜の頬は一気に赤くなった。
ポケットに入れていた楓花の携帯が鳴ったのは、そのときである。画面を見ると、因幡からの着信だった。
美亜に電話が来たことを告げ、一旦楽屋の外に出る。
「……もしもし、宮園楓花です」
『お疲れ様です、楓花——今ちょっとよろしいですか?』
「はい、いいですけど」
『準備が整いました。楓花、呪いを解いてください』




