楓花と因幡 追求
遠ざかっていく小夜の背中を見つけたとき、奥屋敷響の胸はざわついていた。
「——小夜さん!」
自分の声が悲痛に裏返るのを聞きながら、走る。本当は走ってはいけないはずの廊下を。
「待ってくれよ、小夜さん。僕と話をしよう!」
そう、話したいことはいくらでもある。小夜が学園に転校してきてから一週間近くが経つ。当初、距離感のない響の態度のせいで驚かせてしまったこともあったが、それでも二人は少しずつ打ち解けてきていたと思ったのに。
追いついた小夜の肩をつかんで、ようやく彼女は振り向いた。
小夜よりも少し背の高い響を見上げるその視線には表情が鳴く、冷然としていた。
「——ごめん、私には話すことは特にないかな」
突き放すような冷たい声が、耳と心に突き刺さる。
なぜ小夜がこんな態度を取るのかはわかっている。学内の一部の女子生徒たちから、嫌がらせを受けているらしい。
だからなのだろうか? 響にそのような冷たい態度を取るのは。小夜の視線には、響を責めるような棘もあった。「響さえいなければ」と言いたそうな棘が。
だが、それでも響には伝えておきたいことがあった。
「あのさ、これだけは覚えていてほしい——誰に何を言われようと、気にしないで良いから」
僕のことだけ見ていてくれればいいから!
どうしても小夜の心に伝えたくて、声を張り上げてしまう。
「そんなこと言われても無理だよ——だって響は」
小夜がそう言った瞬間、彼女の姿が二重にぶれた。
「あっ」と叫ぶのを抑えるのに響——もとい楓花は必死だった。
本当の咲堂樹里が何と言ったのか。楓花の耳には届かなかった。
代わりに咲堂のものよりも低く歪んだ声が、直接頭の中で響いた。
「——所詮、アイドルの知名度で成りあがったくせに」
ただの言葉だ。だが、がつんと殴られたような衝撃が頭の中に走る。
「……えっと」
今は響が次の台詞へとつなげなければならないシーンだということはわかっている。しかし、言わなければならない台詞が出てこない。
自分の台詞が飛んでしまった。台本は何度も読み、自分の台詞は一言一句しみ込んだはずだったのに。
「——はい、カットカットー!」
止まってしまった楓花を見かねたのか、関監督のカットが入る。
「宮園さん、台詞飛んじゃったかしらね?」
「——そうみたいです、すみません」
自分が撮影の足を引っ張ってしまったようで、申し訳なさがじわじわ募ってくる。
「大丈夫、でもあんまり気負い過ぎないようにね。今の宮園さん、かなり力入っちゃってるように見えるから」
監督の言葉は優しかったが、直前の失敗を嘆いていた楓花の心には強く響いた。
撮影セットの近くに置いていた台本を見直してから、撮影が再開される。結局、問題のシーンはテイクスリーで撮ることができた。
「宮園さん、今度からは気を付けてくださいね」
咲堂がそう声をかけてきたのは、お昼の休憩に入ったときだった。そのときにはもう一人の咲堂はいなくなっていたが、彼女の口からはやはり黒い枝のようなものが伸びていた。
そしてその枝は、以前女子トイレの中で見たときよりも増えている気がしたが、言及する気は起きなかった。
「台詞飛ばすなんて、女優としてたるんでるんじゃないですか?」
「たるんでる」という一言が、ナイフのように心に刺さる。
「そうですよね……ご迷惑おかけして、ごめんなさい」
咎めるような口調で言われると、言葉も出ない。実際に自分が失敗したとわかっているから、なおさらだ。
「しっかりしてください——役者一人の影響で、撮影は左右されるんですから」
そう言い残して、咲堂は去って行った。
「……彼女も随分ときつい言い方をしますね」
背後から、黒いスーツの男が現われる。
「——マネージャー」
彼の大きな手には、小さいペットボトルのほうじ茶が握られている。
「失敗はひきずらず、これでも飲んで一息入れてください」
「ありがとうございます……」
今その瞬間、マネージャーの気遣いは楓花の心に沁み渡った。持つべきものは良いマネージャーだ。
「わたし、疲れてるんですかね」
ほうじ茶を飲みながら楓花がそう呟くと、因幡は「何事か」と視線を向けてきた。
「時々、咲堂さんが二人いるように見えるんです。あと、口の中に何か黒い枝のようなものが見えたりするし……」
「それはそうでしょう。実際に彼女の中には邪悪なものがいますから」
因幡の返答に、思わず口に含んでいたほうじ茶を吹き出しそうになる。
「本当ですか?」
「本当です。先日私も目撃したのですが、その時から彼女の口の中からは黒い枝が生えていましたね。あれが諸悪の根源でしょう」
大きく頷く因幡を見て、思い出す。
どさくさに紛れて忘れていたが「ばんかみ」というアイドルグループは、この手の話には事欠かないということを。
「そしてお会いしたときに祓おうとしたのですが……」
そこで因幡は言葉を止め、悔しそうにうなだれた。
「ダメだったんですか」
「はい——邪悪なものには上手く逃げられました。ひとえに私の力不足が原因でもあります」
因幡は深くうなだれた。相当ショックだったのだろう。
「まあ、そんなに自分を責めないでくださいよ、マネージャー」
「ありがとうございます。あなたたちのマネージャーとして本当に不甲斐ない限りです」
「とにかく、咲堂さんは強い何か——呪いに憑りつかれているってことで間違いないんですね?」
「はい、そうでしょうね。元々強い力を秘めていた邪悪なものは、私に攻撃をされたとき、本物の咲堂さんの中にさらに深く入り込んだのではないかと思われます」
「深く入り込んだ?」
「私が見たことですが……」
撮影初日、様子のおかしかった咲堂と出くわした因幡は、言葉による簡単な除霊を行ったのだという。
すると、もう一人の咲堂樹里が現われた。
「苦しそうなそぶりを見せる咲堂さんの隣に現れたそれは、咲堂さんの顔を掴みました」
すると、咲堂の口の中から生えていた黒い枝先で赤い花が咲いたのだという。
「あれは咲堂さんの体内に、植物のように根を張っているのでしょう。そして私が仕掛けた攻撃から逃げようと、火事場の馬鹿力で咲堂さんの魂の深くまで入り込んだ——その結果、枝はさらに成長し、花をつけた。私にはそう思えてならないのです」
「——じゃあ、少し前から咲堂さんの様子がおかしかったのは」
今まで感じた違和感をマネージャーに話す。
因幡は楓花が感じた違和感を「憑依のせいででしょうね」と断言した。
「憑依により人の味覚や好みが変わることはまれに見られます。そして、撮影現場にあった生花が枯れたという現象、彼女の中に入り込んだあれの邪気がなしているのでしょう」
因幡の返答に、どう返せばいいのかわからなかった。
「——どうしたら咲堂さんを救えるんでしょうか」
少しの沈黙を置いて、楓花が捻り出せた言葉はそれだけだった。
「咲堂さんはあんな人じゃないって知ってるんですよ。もっと優しい人で、温かい顔で笑ってくれて、あんな……」
——あんな、冷たい目をできる人じゃなかった。
楓花に向けてきた咲堂の冷たい目つきを思い出すと、胸の中がずきりと痛んだ。
「方法を考えましょう——あなたにも少し力を貸してもらうことになるかと思いますが」
「やりますよ、わたしにできることなら」
思わず立ち上がりながら、楓花は声をあげた。もう因幡には何度も言っていることだ。
「……わかりました。では、頼みましたよ」
因幡の目に偽りはなさそうだった。




