第九話 ― 称号(アカシ)
火の時代、呈色の刻
人の手が石に触れることを知ったとき
兵の王『イクァ』は平穏の中に生まれた
彼の王は獅子の首を掲げ
その御手には十の刃と鉄槌を持ち
その体には生きとし生けるもの全ての特徴を備えた
イクァはその力を持って武器を作り
それを世界へと分け与えた
イクァの武器を真似て
剣が生まれ
イクァの武器を元に
道具が作られる
しかしそれでも世界は平穏だった
耐えかねたイクァは戯れに、生者たちに囁く
功名は欲しくないのか
力を示したくないのか、と
而して、彼の王は世界に流血を生み出した
その戦いに正義はなく、その諍いに悪はない
その争いは種を超越し、その軍に区別はない
それは純然たる闘争であった
イクァはその背にある、三対の羽をもって、三日三晩、戦場を駆けた後に
自らによって、その戦いを終焉へと導いた
彼は生き残った者たちを側に仕えさせ
その中でも特に目覚しき者たちに牙と爪を与えた
~『異人神話録』第一章第一節~
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戦と狩猟を司る神――『イクァ』――
その信者には異人種が多く、それについで一部の獣人種、その中でもとりわけ血の気の多い者たちに好まれる神である。ただし、同じ信徒であっても一般的に異人種と獣人種は折り合いが悪い。というのもイクァが牙と爪を与えた者の末裔が我々だと、どちらもそう主張して憚らないからだ。
そうした一方でこの神は人間にはほとんど信仰されていない、どころかほとんどの国や地域で禁教扱いとなっている。
神話の内容が手放しに賞賛できるものでないことや、人間よりもその他の種族に近いというのが主な原因だ。なので人間社会におけるイクァへの評価というのは概ね”悪しき神”とされる場合が多い。言ってしまえばある種の悪魔崇拝に近い感覚なのかもしれない。
ただ、そんな神であってもやはり信仰というものはあるもので、こと争い事が好きな、ある種の人間にとって、彼の神はこの上なくすばらしき神に映る場合もある。結果として他種族の間だけでなく、人間社会にも密教として深く根付いてしまっていた。
彼らはまるで悪性の腫瘍の如くゆっくりと”健全な”村や町を喰い潰していく。
この信者たちの厄介な部分は極めて容易に争いの火種となりうることだ。下手をすると火種どころか進んで火事を起こすから手が付けられない。
そんな危険性もあり、国によっては血眼で彼らを駆逐し、厳密に取り締まる。信者だと分かれば、よくて犯罪奴隷に落とされ、最悪の場合は死罪も珍しくないほどの重罪なのである。それでも一定数の信者が存在し続けるのだから、その問題の根深さが窺えるだろう。
――そんな熱心な異教徒たちが行う祭儀がある。
それが”証立て”だ。
信者たちは十年に一度、イクァの誕生際を催し、そこで自身が戦士であることの証明をするのである。方法は様々である。誓いを立てた御前での殺し合いから、より過激なものでは異教徒の首を捧げるというもの、略式では単に獣の牙を捧げるということもあり――
「なるほど、その”証立て”とやらに、狼の牙はうってつけということか」
「ええ、私がこの密教の噂を聞いたのも、ついこの間のこと、おそらくあそこではこれが一回目なのでしょう。それまでの宗門改でも見つからなかったのを考えると、最近になって村にイクァの信仰が入ってきたものかと」
アヒムの言葉にハルは考え込んだ。
壊滅した盗賊団、村に現れたかもしれない狼、そしてイクァの信者たち
これらは全て独立なのだろうか?
イクァの信者たちは自分の都合で狼を狩り、その結果、一部が森を追い出された。そして、その先、この村とジンバルトの境にあるサントパス峠で死んだ兵や盗賊を見つけ、そのままこの森へと入った。
起こりえないと言えるほどでもないか……
「とりあえず、オオカミ? っていうのがこの森にいるんだよね。それで……ええっと、イクァって神様が……」
どこか納得できない表情で考え込むハルにアリスは言う。
一人置いてきぼりにされたまま会話を続けられたせいでへそを曲げたアリスに、簡単に狼のことを説明したものの、次々に出てくる新しい情報に彼女は頭の整理が追いついていないようであった。
「詳しいことは、後でもう一度説明する。だから――」
「わ、分かってるよ! 今日話したことはまだ内緒に、でしょ?」
「くれぐれもお願いする」
「う、うん」
本来なら耳に入れないほうがよかったのだが、下手に誤魔化して情報が漏れるのも困るということで、ハルは簡単に説明を行い、黙っておくように言い含めることにした。
”内緒、内緒だよね”と一人呟くアリスにハルは少しだけ不安になる。
「それで、アヒムも分かっていると思うけど」
「ええ、私も今はまだ話す段階ではないと思っていますから」
これでとりあえずは大丈夫だろう、とハルは息を吐く。
「それに私にもやっておきたいこともありますしね」
そう言うアヒムの顔は商人らしい感情を隠した笑みに戻っていた。
「それよりも、そろそろ家に帰らないと、お母さんたちに怒られちゃうよ?」
アリスの言葉にハルは空を仰ぎ太陽の位置を確認する。気が付けば日は頂点を過ぎ、少しづつ三人の影を伸ばし始めていた。
急に強くなり始めた風のせいで、急激に下がる体感温度に彼はブルリと小さく身を震わせる。ガサガサとゆれる草木が何故か彼の不安を煽った。ハルはどこからか自分達を見張るような視線があるような、そんな奇妙な強迫観念を抱く。
「……それもそうだな。アヒム帰りもよろしく頼む」
そんなマイナス思考を一旦中断するとハルはアリスの提案に賛同する。
「ええ、アリスさんもしっかりとついてきてくださいね」
「うん」
そうして、三人はそれぞれの思いを胸に村へと引き返した。
――――――
少年は薄暗がりの森を駆ける。どうしてもやらなければならないことがあり、彼は危険と分かっていても森に入らなければならなかった。それが運のつきである。予想外の出来事に少年は混乱していた。正常に働かない思考を、迫り来る複数の足音がさらに煽りたてる。
”誰か助けてくれ!!”
そう叫ぼうにも、乱れた息と渇いた喉はそれを許さず。喉からは掠れた音しか出ない。その事実が彼の焦燥感をひどくする。
とにかく家まで、いや、せめて村まで辿りつけられたらなんとかなるはずだ
願望にも近いそんな思いを抱きながら、少年はもつれそうになる足をどうにかして前へ前へと進めた。
”こんなことになるなら、無理をすべきじゃなかった”と自身の取ったあまりにも不用意なその行動を呪う。
話が違う
後ろから迫る”恐怖”を思いながら、そんなふうに考える。
いないんじゃあなかったのか!?
耳にした情報が間違っていたのだと、彼が判断した時には既に後悔する暇もなかった。子供の足でソレから逃げ切れるはずがない。まるで玩具で遊ぶそうにソレは少しづつ彼を追い詰めていく。
混乱する頭でどうにか打開策がないものかと、頭を巡らせる。
ヤツラとの距離は……
状況を確認しようと振り向いた彼の目に、まるで笑うように歪めた口と、剥き出しの黄色い歯が飛び込み、その口から漂う嫌な臭いが彼を絶望させた。
次話は三日以内を予定しています。