第八話 ― 表出
日本に育った人間ならば獣害事件と聞き、まず頭に浮かぶのは熊の存在だ。大きな個体であれば三メートルに達する場合もあり、過去には十人以上の人間を死傷させたものも存在するくらいで、有名な事件などはソレを題材に小説が作られるほどである。だが逆を言ってしまえば、それ以外の危険な獣はと問われると大抵の人間が首をひねるのではないだろうか。それを承知で一つ問おう――西欧において獣害とはなんだったのか、と。
日本と違い西欧人にとって獣害の最たる要因は狼に他ならない。
馴染みのない者は、その犬に似た姿から侮りがちであるが、実際には狼という生き物の危険性は犬のソレとは一線を画している。種類によっては大型犬を上回るサイズ、咬合力は倍にもおよび、容易に骨を噛み砕く。集団ともなればその組織体系の緻密さは言うに及ばない。
……が、実のところ狼の狩りの成功率は低く、十パーセント程度ともいわれている。
”なんだ、大したことないではないか、それでは何が厄介なのか?”
その疑問の答えは単純、これはあくまで”自然界で狼が狩りを行った場合”を想定したに過ぎないからだ。狼が人間の領域で生活を始めた場合、まず初めに狙われるのは家畜である。もちろん家畜が狼に食い殺されればその損益は甚大であるが、それよりも問題なのは次の段階だ。
狼の牙はより狙いやすい対象へ向かう、つまり――人間の女や子供だ。
おまけに人間の味を覚えた狼たちは時間経過と共に、その行動を積極的にしていく。西洋の物語おいて、人喰い狼が登場するのは何の誇張でもなく、事実そのものなのである。
――――――
「……ジェヴォーダンの獣、か」
ハルはポツリと呟いた。
「ジェ……なんですって?」
聞きなれない言葉にアヒムはそう聞き返す。それに答えずハルは続けた。
「アヒム、最近この近くで人が大量に死ぬようなことはなかったか?」
「はい? 急に何を……」
「重要なことなんだ」
有無を言わせぬ口調でハルはアヒムに尋ねる。
「ええ、と……そりゃあ、こんな世の中ですし、人が死ぬことはざらにありますよ」
「そういうのじゃあない。一人や、二人じゃあなく、もっとまとめて人が死ぬような……そう、戦争みたいな」
「戦争って……いくらなんでも、そんなのがあったら私の耳にも入りますけど、少なくともここ最近そんな話は――」
「サントパス峠」
それまで、二人の話を黙って聞いていたアリスが声を上げた。
「お父さんが言ってた。サントパス峠のとうぞく? をジンバルトの兵隊さんたちが、って」
「ああ、例の”サントパス峠の大捕物 ”ですか!」
「大捕物? なんだそれは?」
ハルがアヒムに聞くと、彼は”私とした事が”と面目なさそうに頭をかく。
「なんでも、ジンバルトの近くでかなりの被害を出していた”金の芽”とかいう大規模な盗賊の集団がいましてね。大捕物があった頃には、物だけでなく人の被害もさすがに看過できなくなっていたみたいで、街にいる貴族や周辺の領主に協力を要請して一斉に駆逐したって話です。それで盗賊団はほぼ壊滅、かなり人死にも出たとか」
「それはいつのことだ?」
「確か、まだ半年も経ってませんね。五ヶ月、いや四ヶ月ぐらいでしたか」
となると大体、森で小動物が多く取れ始めるようになった時期と一致しているな
「……それで、一体どうして急にそんなことを聞いてきたのか説明してくれるんですよね?」
「その死体の足を見てみろ」
「足?」
ハルの言葉にアリスは露骨に顔をしかめた。
「後ろ足の裏側、地面につかない位置に五本目の爪がある」
「あの……見ないとダメですか?」
「ダメだ」
本当は別に見なくても言葉で説明すればいいのだが、どうにも今日に限ってアヒムはハルで遊んでいるそぶりが見られたので、彼なりの意趣返しである。
「……アリスは見なくていい」
「そ、そっか」
ハルの言葉を聞いて恐る恐る覗き込もうとしていたアリスを引き止める。
「ああっと、確かにそれっぽいのがありますね」
ハルがアリスを引き止める横で、本当に確認したのか、適当にあわせているのか、アヒムが伝えた。
「それは狼爪といって、狼が持つ特徴の一つだ」
「お、狼!?」
その発言にアヒムは驚いたような声を上げる。
「えっと、おおかみって何? 犬じゃないの?」
アリスにいたっては狼がなんなのかも理解していない。
それも当然のことでこの森には熊はもとより、狼さえいないはずであった。
「そんな……長いことこの村には取引に来ていますが、狼なんて聞いたことも」
「そうだ。間違いなく、この森に狼はいなかった」
「だったら――」
「もちろん勘違いかもしれない」
ハルが挙げた狼爪は必ずしも狼だけが持つ特徴ではない。犬にも現れるほか、狼でも持たないものもいる。
「だから、これはあくまで”もしかしたら”という可能性にすぎない。けれど、村の人間、それも自警団が浮き足立っている以上、何かあったと考えるのが自然だ」
「……仮にですよ、仮にこれが貴方の言うとおり狼だったとして、どうして急にこの森に現れたんですか?」
”仮に”という部分を強調しながらアヒムは言う。
どうやらハルの仮説に納得できていないようであった。
「狼は餌場を失うと、群れを引き連れて長距離を移動するんだよ。狼は何らかの原因で、もといた場所を離れざるをえなくなった」
狼はその気になれば一昼夜走り続けることが可能であり、一日で数十キロ移動することもある。中にはテリトリーを確保するために、新しい群れを作り、数百キロ移動したという記録もあるほど、行動範囲が広い。
「”何らかの原因”ってなんですか?」
「さぁ?」
「”さぁ”って……」
「今ある情報じゃあそこまで推測できないよ。どこかの森で狼狩りがあったのか、単に食糧難にあったのか……けど、この森に至る理由には心当たりがあるんじゃないか?」
「心当たりって……まさか!」
ハルの発言の意味を理解したアヒムは、目をカッと開き彼を見る。
「そう、”サントパス峠の大捕物 ”だ」
彼に一度頷くとハルはそう告げる。
「随分な死者が出たそうだな? 軍の人間はまだしも、賊の人間が手厚く葬ってもらえるとでも?」
アヒムには浅く掘った穴に放り込まれた無数の死体が容易に想像できた。
そして、その死体を掘り起こす何匹もの獣――
「そうでなくとも、大量の怪我人が逃げ延びたはずだ。どうだ、格好の餌場だろう」
「それでは、そこで死体と怪我人を喰らい尽くした狼がこの森に入ったと?」
「喰らい尽くしたかどうかは判断しかねるが、その中の一部がこの森に流れたとしても不思議じゃない」
ハルの説明を聞きアヒムは思わず、天を仰いだ。
先ほどから静かにしているアリスはと言えば”何の話をしているの?”といった様子で困惑しているようにもハルには見える。
「もしかしたら、村にも見た人間がいたかもしれないな」
ハルは言いながら考える。
仮に見たとしても彼らは狼とは思わなかったのではないだろうか、と。
”また野犬か”
そう面倒そうに呟きながら、適当に追い払おうとしていたのかもしれない
何せ、彼らは狼がいるとは思ってすらいない。下手をすれば狼という存在すら知らない者もいるのではないだろうか、とハルは思った。事実、アリスは狼と言う言葉を知らなかったのだから。
まさに意識の裏側に”隠されていた”わけだ
「アヒム、村か、あるいは森、平原、山でもいいが、狼がいそうな場所の心当たりは?」
「……すみませんが、さすがに。ただ以前、取引をした集落、ジンバルトの東にある場所なのですけど、そこで気になる話を聞いたことがあります」
「気になる話?」
「戦と狩猟を司る神――”イクァ”に関する密教の噂ですよ」
「戦と狩猟……まさか闘――」
アヒムの言葉にハルは”まさか”と言う思いであった。さすがの彼もこんなところでその話を聞くとは想像していなかったからだ。
”もっと詳しく教えてくれ”そんな願いを口にしようとしたハルを、不機嫌そうなその声が引きとめる。
「もー! わたしにも分かるように喋ってよぉ!!」
吃驚して顔を向けると、除け者にされたと思ったのか、アリスは膨れっ面に上目遣いで、二人を睨みつけていた。
次話は三日以内を予定しています。




