第十三話
授業が終われば生徒は帰る。
何も好き好んで学校に居残る必要は全くないわけで、司は今日も今日とて終業のベルと同時に身支度を済ませ誰よりも先に教室を出ていく。
しかし、廊下を抜けて階段を下り昇降口に出てロッカーに手を伸ばしかけたところで、何故か地学の先生に声を掛けられ資料運びを手伝わされる羽目となり、一階から三階にある図書室へと資料を置いてまた一階へと下りていくのだが今度は美術担当の教師と鉢合わせし、注文した画材一式を運んでくれないかと頼まれ、三階の美術室準備室へと再び階段を上る始末。
時に、世界中に嘆きたいほど理不尽な不幸が続く日というものがあるらしいが、どうやら司にとって今日はそんな日だったらしい。
「……天気予報、今日は雨降らねぇって言ってたのに」
雑用を済ませ再三ロッカーに辿りついたときには、既に灰色の空から大粒の雨が司の行く手を阻むかのように降り注いでいた。本日の気象予報士は、くもりではあるが雨にまでは至らないだろうだとか笑顔で言っていたくせに。
生憎と司は折り畳み傘を常備するような周到な人間ではないため、ともなるとここから濡れて帰るしか選択肢はなかった。
「おー、転入生。ボケーッとしてどうしたよ?」
背後からの声に振り返ってみると、そこにいたのは藤堂連司だった。司に比べれば肩幅も背もかなり大きくて否応にも視線が斜めに上がってしまう。劣等感とまではいかないが、何となく接するのが疲れるような気がしないでもない。
「ボケーッて、別に。雨が降ってるから少し困ってただけで」
「ん? じゃあ用務員室行けばいいじゃねえか。オッチャンに頼めば傘の一本ぐらいは貸してくれると思うぞ」
「……用務員室?」
連司の話によると、用務員室では生徒が忘れた、或いは捨ててしまった傘を集めて修理したり一時的に預かったりしているとのことらしい。転入して間もない司にとってそれは初耳の情報で、そして同時にかなりありがたい話でもあった。用務員室の場所は校舎の端、確かゴミ収集場のすぐそばだったような気がする。
「何なら案内してやろうか? どうせ暇だし」
「……いや、いい」
連司の申し出を丁重に(あくまで司基準で)断ると、司は早速用務員室へと向かって歩き出した。
別に濡れて帰っても構わないのだが、濡れずに済む方法があるのならそれを選ぶに越したことはない。
職員室の前を過ぎて渡り廊下を越えると、一つだけ他の教室とは趣の違う木製の扉が見えてくる。ノックしてからドアノブを回すと、モスグリーンの作業服を着た初老の男性が机に向かって何か作業をしていた。司の来訪に気付いた男性は手を止めゆっくりと振り返る。少し掘りの深い顔立ちだが気難しそうな雰囲気はあまりしなかった。
「失礼します。あの、えと……」
ほぼ初対面の相手ともなると人見知りに関係なく何となく尻込みしてしまう。だが、緊張で強ばった司を他所に用務員さんはフッと柔和な微笑を浮かべた。
「あぁ、いらっしゃい。君も傘を借りに来たのかな?」
見た目とは裏腹に優しい口調で司の緊張が少しほぐれる。若干顔は強ばったままだが一歩踏み出し、既に傘の用意をし始めた用務員さんに用件を伝えようとして――後ろからドアノブを回す音が聞こえた。
「失礼します、傘を借りに来たのですが……って、司? どうしてここに?」
「しの……、先輩と同じ用件ですよ」
現れたのはあろうことか忍だった。さして広くないこの用務員室に三人も集まると存外窮屈で、司はほとんど無意識のうちに忍から二歩分距離を開け、そして同時に視線を明後日の方向に反らした。まさか忍と出くわすとは思っていなかったので、突然の出来事にどう対処すべきか自分でも分からなくなってしまっている。
「そうか、お前も傘を忘れたか。……どうも最近、お前とは妙な縁があるようだな」
「……」
縁と言われて思い当たる節があるが、その名前を出す意味も無いので司は黙って用務員さんの方へと視線をずらす。
すると、用務員さんは何故かとても申し訳なさそうな顔で司と忍の二人を交互に見ていた。
「……あの、どうかしたんですか?」
「いや、傘を貸せるには貸せるんだけどね……」
用務員さんの視線の先を揃って追いかけると――小さくもなく、かと言って特別大きくもない透明のビニール傘が一本だけ傘立てに入っていた。
傘立てに、一本だけ。
借りに来たのは司と忍。
借りれるのは一本だけなのは、いちいち口に出すまでも無い事で。
「私も傘を持ってればと思ったんだけどね……」
本当に申し訳なさそうに眉根を寄せながら、それでも用務員さんはご丁寧にも傘立てからビニール傘を取って差し出してくれた。一瞬だけ忍と視線がぶつかって、それから司は。
「じゃあ……いいや。先輩に譲りますよ」
「は? 何を言って――あ、おい司!」
先輩の言葉を待たず用務員室を出て廊下を歩く。
窓から見える曇天は相も変わらず雨を吐き出し続けている。
jj雨粒は大きく、グラウンドはあっという間に泥でぐしゃぐしゃになっていた。走ろうものなら喜んで泥が飛び付いてくるだろう。走る気など、更々無いが。
「あっれー? 司君ってば、こんな所で何してるんですか?」
職員室の前に差し掛かった時、多量のプリントを抱えた桜夜に出くわした司は――無視することにした。
「あぁッ酷い! 今、目が合ったのに無視しましたね!?」
「目が合ったから無視したんだろうが……」
「昼休みは普通にお話してくれたのに、司君ってばすぐに不機嫌になるんですね。秋の空とそっくりです」
「……女心だろ、それ」
それとも、暗に司の心が女々しいとでも言いたいのか。
無駄に元気な桜夜を前にした所為か司の背にドッと疲労が圧し掛かったような気がした。肉体的にはもちろん精神的にも。活力に溢れるのは大いに結構だが、それが必ずしも人に良い影響を与えるとは限らない。元気過ぎる人間は、得てして相手にするとこちらが疲れるものだ。故に、これ以上相手をする理はない。
さっさと行こう――右足を踏み出し掛けたその瞬間、桜夜は何かを思い付いたかのようにプリントを抱えたまま器用にパンッと両手を打ち鳴らした。
「そうだ! 司君、相合傘って知ってますか?」
「何を突然……」
それは、そもそも知らない人間がいるのか? と逆に訊きたくなるぐらいありふれているモノで、そして今の司からしてみれば全く縁のないモノじゃないか。
渋面を作り露骨に怪訝な反応を見せたにも関わらず、桜夜は摺り足のような奇妙なステップを踏んで司ににじり寄ってくる。若干気持ち悪くて、三歩後ずさる。
「よくある、子供のラクガキの定番ネタでもあるんですけど……実際アレ、結構ドキドキするんですよ? 冷たい雨の日、一本の傘に寄り合う二人……恋愛映画でもポピュラーですし、傘という限定的な空間の中で知れず触れ合う二人の手と手が…………何かこう、グッと来ませんか?」
トドメとばかりにグッと握り拳を作り、少々トリップ気味な様子の桜夜に、
「………………」
司は誠心誠意、軽蔑の眼光を返してやった。
「な……なな、何ですかその目は!? ホントにもう! 司君はもう少しロマンチストになるべきだと思いますよ!?」
「俺には関係ないっての」
「じゃあじゃあ、よかったら私と一緒に帰りませんか? 司君と違って、私はちゃんと傘持ってきてるんですよ」
「じゃあって……あ? 何で俺が傘持ってないの知ってるんだ?」
「さっき、藤堂君から聞きましたよ。司君が傘を借りに用務員室行ったって。……その様子だと、傘は借りれなかったみたいですね」
手ぶらでここを歩いているのが何よりの証拠。
しかし、百歩譲ったとしてもコイツと相合傘して帰るつもりなど毛頭ないわけで、司は踵を返し無言で昇降口へと早足で向かおうとして。
「忍ちゃんとなら、相合傘するんですか?」
「は? なんで忍の――」
――と、司が振り返った時には既に桜夜の姿は影も形も無くなっていた。白い蛍光灯の明かりが照らす廊下には司と、それから遠くに何人かの生徒が歩いているだけで他には誰の姿も無い。職員室から漏れ聞こえる先生の話し声だけが司の耳朶を打つ。
「……?」
忽然と姿を消した桜夜が多少引っ掛かったが気に留めて帰りを遅くするのも不毛だったので司は今度こそ昇降口へと向かって歩き出す。
雨脚は、思いの外強くなっていた。
濡れて帰ろうなどと最初は安易に考えてはいたものの、実際問題全速力で走って帰ったとしてもカスミハイツまではかなりの距離がある。ずぶ濡れは必至だろう。
そう考えるとどうにも決心がつかず、昇降口の手前で延々と二の足を踏み続けていた。
「あぁよかった。まだ帰ってなかったんだな、司」
そうこう躊躇している間に忍に追いつかれてしまった。
……いや、決して逃げていたわけではないのだが、これは所謂言葉のあやというものだ。
ややバツが悪そうに少し顔をしかめながら、司はすっかり暗くなってきた濃い灰色の空を見上げた。
「……い、今から帰るところですけど」
「そうか。なら、一緒に帰るとするか」
「は……ぁッ?」
そんなことを真顔で、あたかも平然と言いのける忍に司は愕然とした。
今ここにいる司や忍が昔の、小学生の時分であればいざ知らず、高校生ともなって男女の仲を懸念せずにはいられないようなこの状況下の中で。
眉根一つ動かさず。
その視線は真摯に、まっすぐに。
司を、見つめている。
「……………………………………………………ッ」
ずい、と差し出された透明なビニール傘の柄を。
司はたっぷり三拍ほど置いてから――渋々と握りしめた。
学校帰りに相合傘ってのは流石に経験無いな……
中学は家からかなり近かったから傘忘れても平気だったし、高校は自転車通学だったからそもそも傘使えないし。
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では、待て次回。




