第十話
カスミハイツ203号室。
つい先日までは無人で殺風景だった部屋も、幾分か家具が並べばらしくなってくるものだと桜夜は感心していた。
真新しい玄関マットには来客用のスリッパを並べ、元々綺麗だったシンクは桜夜がさらに磨き上げて新品同様に。
居間は司の部屋と同様寝室と兼ね合いだが、そこは女の子らしく丁寧に整頓されている。残念ながらテレビは高額だったので買わなかった。外界の情報なら新聞でも十分に足るのだが……それでも、時々ドラマや映画が恋しくなる時もある。
「……何だか、緊張しちゃいますね」
壁を挟んだ向こう側に司がいる。
いや、実際は買い出しに出かけていて今は居ないのだが、使命のためとはいえ男子と隣同士で暮らすのは胸がドキドキするような、それでいてくすぐったいような不思議な感触だった。
朝起きて、制服に着替えて扉を開けて右を向けば司がいる。
挨拶をしても返ってくることはないが今は仕方がない。
そんな雑念を軽く首を振って払い除けると、桜夜は丸テーブルの上のデートのしおりに視線を落とした。
題して『司と忍のラブラブ大作戦』。
我ながら会心のネーミングセンス――のはずなのだが、さっきからどうも納得がいかず本日何度目か数えるのも馬鹿らしくなってきた消しゴムに手を伸ばす。
この作業だけでかれこれ一時間以上浪費しているような気がする。肝心のデートのしおりの“中身”自体はとっくの昔に出来上がっているのだが、どうも表紙を飾るタイトルがいまいち決まってくれない。おかげでしおりの表紙はしわくちゃで、あと数回消しゴムを滑らせればもれなく破けてしまうことだろう。
「ら、ラブラブにするんじゃなくて二人の間に縁を築くんです! 司君が失くした縁の……」
……違う。
司が失くしたわけじゃない。
不意に桜夜は手を滑らせ消しゴムを落としてしまい、ことり、とテーブルの上を転がっていく。追いかける手は微かに震えていた。
「…………」
震える手で、落とした消しゴムを握りしめる。
鉛筆の黒い字はいくらでも消すことが出来る消しゴムでも過去に犯した罪は消せそうにない。
どんな方法を使ったとしても、この罪はきっと消えないだろう。
桜夜は自分の犯した罪の傷跡をハッキリと目の当たりにしたのだから。
※
司は小さい時から人見知りの嫌いのある子で、小学校に入学したばかりの時から少し浮ついた子だった。
小学一年生ともなれば、気が付けば友達だったりグループの仲間に入っていたりするものなのだが、何故か司はやや遠慮がちに距離を置いて過ごしていた。
同じクラスだった桜夜はその逆にほぼクラス中の生徒と親しくなっていて、歌の歌詞にあるような友達百人が現実の物になるのではないかとドキドキしていたほどだった。
そんな桜夜でも、やはり司だけは仲良くなるキッカケが掴めず、歳に不相応な司の態度に苦手意識さえ感じていたほどだった。
それは、ある日のこと。
桜夜は友達との下校途中で偶然司の姿を見つけた。
ただ彼の姿を見つけただけだったのなら桜夜も特別意識せず通り過ぎて行ってしまったかもしれない。だが、その隣に見知らぬ女の子がいて、しかも二人で楽しそうに笑い合っていたのを見つけて桜夜は心底驚いた。
普段は物静かを通り越して寡黙な司が、陽だまりのように温かく柔らかで自然な笑顔を浮かべている。今の今までそんな表情を見たことがなかった桜夜にとっては衝撃的で、初めて見た司の笑顔にそのまま釘付けになっていた。
(あんな顔、出来る子だったんだ……)
次の瞬間、桜夜は連れ添っていた友達を全員置き去りにして駈け出していた。もちろん目的は司と、司の隣を歩いていた見知らぬ女の子。追いかけて何をするかだとか、この時の桜夜の頭の中にそういった考えは一切無かった。
見失いたくない、追いかけなきゃと本能と好奇心とが暴れ出して体の制御が出来なかった。桜夜も馴染みのある小さな駄菓子屋、大きな滑り台が特徴的な公園、夕暮れの商店街を過ぎて、そして司達が行きついた先は――
「私の……神社?」
毎日上ったり下りたりしてるせいで何段あるか覚えてしまった石段にくすんだ灰色の鳥居。石畳の向こうには本殿があり、その脇には桜夜たちが暮らす自宅がある。
だが、境内を見回しても二人の姿は何処にも見当たらなかった。それこそ、今しがた桜夜が見たものが幻だったかのように忽然と消えてしまっている。
あれは決して見間違いなんかじゃない、この目ではっきりと見たんだから。
二人を探そうと鳥居をくぐった直後、本殿の向こう側から玉砂利を踏み鳴らす音が聞こえてきた。
「はぁ、はぁ……し、忍は何処行っちゃったんだ……?」
駒犬の尻尾に手を置きながら息を整えているのは紛れもなく司だった。大きく肩を上下させながら、彼は本殿の周りをぐるぐると回って歩き続けていた。
そして何故か、桜夜は咄嗟に鳥居の影に身を隠してしまっていた。
見つかってはいけないような気がして、体が勝手に動いてしまったのだ。
柱の影からそぉーっと顔だけ覗かせて様子をうかがっていると、やがて本殿の縁の下から女の子がひょっこりと姿を現し、歩きまわる司の後ろにそーっと近づいて……何と膝かっくん。
「ふあッ?」
「あっははは! 司ってば鈍いんだからぁ」
司より僅かに背の高い女の子はそう言ってくすくすと悪戯っぽい笑みを浮かべていた。桜夜は、そんな彼女の顔をまじまじと食い入るように見つめていた。
同じ学年のクラスメイトであればほぼ全員の顔と名前が一致するのに、何故か司の隣で笑う彼女の事だけは全く分からなかった。何処かで見たような気もするが、おぼろげな記憶は何の役にも立ってくれない。
ますます、気になった。
「あ、あのさ……その、普通かくれんぼって言ったら隠れて動かないよね?」
「知らないの? かくれんぼって、鬼に見つからなければ動いてもいいのよ」
「じゃあ、みーつけた!」
「……む」
司にポンと肩を叩かれた忍はしまったと舌を出し、二人はまた最初に桜夜が見かけた時のように笑いあった。女の子の笑顔は桜夜に比べれば少し大人びていて綺麗で、そして司の笑顔は、本当に別人ではないのかと疑ってしまうほどに明るくて、心の底から楽しいと感じているかのような笑顔だった。
「…………」
それを見た桜夜の心の中で、不意に何かがもやもやと湧き起こる。
それは上手く言葉では言い表せないが、それでも敢えて例えるのであれば、ボールペンでぐるぐると書き殴って出来た落書きのような気持ちだった。
司の笑顔と女の子の笑顔。
この二人を見ていると、無性に心がもやもやして心が落ち着かなかった。
ふと、この時の桜夜はひらめく。
あの二人に混じって一緒に遊べば、もしかしたらこのもやもやが消えるのではないか――と。
思い立ったが吉日、善はマッハで急げ。
今にしてみれば子供じみた子供らしい発想だが、当時の桜夜はそんなことお構いなしに走りだす。
「入ーれーてーぇッ!」
放課後、夕暮れ泥む境内。
その日三人は初めて出会い、そして――
ほぼ一カ月ぶりの更新、お久しぶりです。
次話は来週の予定ですが……不定期更新にタグを直しておかないといけませんね;
感想とかあったら嬉しいな。
では、待て次回。