第九話
その日、司は神社の賽銭箱の前でしゃがみ込んで泣いていた。
泣いていた理由は至極単純。
近くの公園のブランコで遊んでいる時、司より年上の子供たちが数人で押し寄せてきて、ブランコから無理やり下ろされて転んでしまったからだ。
膝小僧を擦りむいた程度の怪我だったが、怪我の痛みより公園から追い出されてしまったことが悔しくて、司はべそをかきながら近くの神社に立ち寄っていた。手水舎で傷口を洗って痛みが治まるまで休むつもりだったのだが、運の悪いことに司が帰ろうとしたその矢先にポツポツと雨が降り出してしまった。
「あ……」
小学生が常日頃から傘など持ち歩くわけもなく、かと言えば濡れて帰れるほど太い神経でもなかった司はただただ成す術なく社の軒先へと押しやられてしまった。
雨脚は弱まるどころか徐々に強くなっていって、地面を跳ねた雨粒が膝や頬にまで飛んでくる。おまけに、半袖シャツのせいで体も心も静かに冷えてふるふると震えてしまう始末。
他に人影も見当たらず、しとしとと降り注ぐ雨音以外の音が全く聞こえず、司の世界は突如として孤独なものへと変貌してしまった。
涙が零れる。
それは怪我の痛みだけではなく、もしかしたら自分は家に帰ることが出来ないんじゃないかという子供ゆえに誇大してしまった恐怖感の所為だったかもしれない。
雨脚はさらに強まり、頬を伝う雫が涙なのか雨粒なのか分からなくなってきたその時だった。
不意に、雨音がぼつぼつと布地を叩くような音に変わった。
何だろうと司が顔を上げた先には、いつの間にか一人の女の子が立っていた。その手には、子供が持つにしては地味で模様も何も無い飾り気無しの大人用の傘。そんな傘を握りしめた両手を、ずいっと前に伸べてこう言った。
「……大丈夫?」
「あ……」
それが彼女との、桐嶋忍との出会いだった。
※
「デート行きましょう、デート!」
週の初めの月曜日、ちょうど朝のホームルームが始まる五分前ほど。
一緒に登校しようと言われるのを未然に防ぐため、普段出かける時間から十分ほど早く行動し、早起きの反動で溜まった眠気を紛らわせるため机に突っ伏していた司の頭上にそんな声が降り注いできた。
“デート”という単語にクラス中の視線が一直線に司へと注がれる。が、これを彼女の言葉諸共無視する。狸寝入りでも何でもなく純粋に眠かった司はそのまま意識を遠く遠くへと押し込むつもりだったのだが、ぽかぽかと体を叩かれては快眠も何もあったものではない。渋々と首だけ動かし、ぼそりと一言。
「…………嫌だ」
嘘偽りのない司の真摯で正直な意見を桜夜が汲むこと叶わず、代わりに何処かで見たような覚えのあるレジャーランドのチケットが鼻先に突きつけられた。
「もう既にチケットも用意しました。日にちは今度の日曜日、時間は午前十一時に集合で、解散は午後六時ごろを予定しています」
「その微妙に無駄な時刻設定は何なんだ……」
ふと視線をずらしてみると、前の席の連司がニヤニヤとあくどい笑みを浮かべてこちらを眺めていた。周囲から突き刺さる視線と似たような意味合いの色を含んだ視線だ。
「よ、朝っぱらからお熱いコトで」
「……行くわけないだろ」
以前にぶつかって以来、藤堂連司は暇があると司に馴れ馴れしく話し掛けてきて迷惑だった。連司単体ならそこまでで終わるのだが、そこに桜夜が加わり前後から地獄の責め苦のような構図が出来上がる。
「お前なぁ。せっかく桜夜ちゃんが誘ってくれてるんだぜ? 彼氏ならもう少し彼氏らしくふるまうべきだとは思わないのか?」
「や、やだなぁ藤堂君ってば。私と司君はそんなんじゃないですよぉ~」
「……」
こんなのと付き合うぐらいなら練炭自殺でもしてやるよ。
そんな真っ黒い台詞を朝から吐くのも面倒なので、司は気を取り直し居眠りを再開しようとして――頭をぱしぱしと紙のような物で叩かれまたも居眠りが妨害された。
「デートのしおりも用意いたしました。備えあれば憂いなし! これで滞りなくデートを――ってぇ、聞いてますか~? 司く~ん!」
「…………」
結局桜夜は昼休みに至るまでの休み時間、そして時には授業中でさえもデートに誘おうとするのだが、司はそれら全て歯牙にもかけずひたすら居眠りを続けて完全無視を決め込んだ。
昼休みになった今でも、桜夜は司の後ろをくっ付いて来て離れる気配がない。購買の前でパンを奪い合う生徒たちにもみくちゃにされても、上級生から声を掛けられようが先生に呼び止められようがお構いなしに追尾してくる。屋上まで辿りついても――以下同文。
「行きましょうよデート! 絶対楽しめると思いますよ」
「……いい加減しつこいとは思わないのかお前は」
「これも司君の縁を直すためなんです! デートすれば、二人とも仲良くなれるじゃないですか!」
ここに来て桜夜の発言に引っ掛かりを感じ、思わず司は言葉を挟んでしまった。
「……今、二人って言ったな?」
「? はい、二人ですよ。デートと言ったら普通男女の二人組じゃありませんか?」
「行く行かないはともかくとして……“誰”と“誰”が行くんだ?」
司が確定なのはともかく、もう一人の人物とは誰なのか。
別に相手如何によっては応じようとは欠片も思っていない。ただ、少なくとも司は見ず知らずの女子とデート出来るほど軟派な人間ではないし、仮に知人だったとしても応じるつもりはない。
「んー、もうちょっとしたらここに来ると思うんですけど……遅いですね。ここでチケットを渡すつもりなんですけど」
キョロキョロと視線を彷徨わせながら、結局司の疑問は風の中へと流されてしまう。
呆れ果てて溜息すら出ない司はいつもの場所で寝転がり、既に眠気など微塵もないのに無理やり瞳を閉じることにした。
「あ、来ました来ました。おーい、忍ちゃーん」
一瞬、司の心臓が胸から飛び出たかのように大きく鼓動する。
桜夜は給水塔の位置からちょんと飛び降りそのままトトト、と忍に駆け寄ると呼び出された本人は少々怪訝な表情を浮かべた。
「此比良……さん? 私に用って、何?」
「はい。実はですね、遊園地のチケットを手に入れたんですけど……よかったら司君と二人で行きませんか?」
何の捻りもないストレートな言葉。
例えるならミートカーソルのど真ん中に豪速のジャイロボール放り込むかのような曲がりようの無い直球発言。流石の司も無反応というわけにもいかず、跳ね起きた拍子に給水塔の縁に強かに頭をぶつけてしまい、その音に気付いて斜めに上げた忍の視線とぶつかった。
怪訝な表情は変わらない、むしろ険しくなったようにさえ見える。
「何だ、そんな所で」
「……別に。ここで昼飯食おうとしてただけですよ」
「…………そうか」
視線を交わすだけで二人の間にピシ、と小さく亀裂が入るような音が混じる。司は忍の視線から僅かに顔を反らし、彼女の背後のコンクリートを見つめる。忍は険しい表情のまま司を見つめて――いや、少し睨みつけているようにも見える。
「も、もう! 二人ともちょっと緊張し過ぎですよ! ここは一緒にお昼ご飯でも食べてリラックスしてから」
「俺はここでいい」
「司君ってば!」
「……そこのベンチでいい? そこなら私たちの声も届くし司の声も聞こえるでしょ」
「は、はい……」
そんなピリピリとした二人に板挟みを受けた桜夜の提案は見事に玉砕し、気まずい雰囲気のまま気まずい距離感を開けることとなってしまった。
桜夜は忍の隣に腰掛け弁当の包みを解いておにぎりを頬張る。忍はサンドイッチを無言でかじっていた。
・ ・ ・
距離にして数メートルの空白を風が過ぎってまた消えていく。
遠い昔は幼馴染だったというのに、今の二人にそんな親しげな面影は存在しない。恐る恐る桜夜が隣の忍を見やると、その視線は依然として司の方向を見つめていた。
「あ、あの……えっと……」
「ん……あ、ごめんなさい。ついボーっとしてしまって」
桜夜の視線に気づいて向き直ると、忍はさっきと打って変わって柔和な微笑を浮かべる。間近で見ると女の桜夜でさえ惚れ惚れするような美貌だった。ほんのりと鼻孔をくすぐるのはフレグランスの香りだろうか。制服の上からもくっきりと分かる抜群のプロポーションには嫉妬心さえ抱いてしまう。
「それで……と。此比良さん、おかしな事を訊くけどもいいかな」
「は、はい。何でもかんでも、ドンと来いですよ?」
見惚れていたのを誤魔化そうとしたせいで声が上ずってしまったが忍は笑って流してくれた。
「私と此比良さん、先日喫茶店で会ったのが始めてよね? ……だけど、何だか初対面じゃない気がして」
「それは……う、うぅんと……」
「別に怒ってるとか、そういう訳じゃないんだけど……名前を呼び捨てにされてるからちょっと気になって」
「ご、ごめんなさい! あの、それはつい……というか、私の癖と言うか何と言うか……」
慌てふためく桜夜を見て忍はクスクスと笑みをこぼす。
「怒ってないって言ったでしょ。それに……私も不思議なんだけどね。此比良さんに名前で呼ばれても違和感がないというか……ずっと昔から呼ばれてたような気がしてて。だから、気にしないで呼び捨てのままでいいわよ」
「じ、じゃあ……お、お言葉に甘えて」
「その代わり、私も桜夜って呼び捨てにさせてもらうから。これでおあいこでしょ」
「…………ずっと昔……か」
“ずっと”と付いてしまうと、まるで本当に大昔のことのように思えてしまう。
カラフルな写真が時を経てセピアに色あせてしまうように、二人にとってはもう既に過ぎ去ってしまった思い出。
きゅ、と桜夜は無意識に拳を握りしめてしまった。
「桜夜、急にそんな顔してどうしたの?」
「え……? わ、私今変な顔してましたか? は、恥ずかしいなぁ」
「変な顔というか……何だか寂しそうな顔してたわよ。何か嫌なことでも思い出したの?」
「な、何でもないです何でも。それより、えっと……ほら、これ遊園地のチケットです。これで司君とデートしてみては如何でしょうか?」
「……さっきも思ったんだけど、どうして桜夜が司とのデートを誘うの?」
「え? えぇっと……」
よくよく考えてみれば全く以てその通りで、失念していた桜夜はあうあうと言葉にならない言葉を彷徨わせる。傍から見るとこの図はつまり、
「……司が誘いにくいから、桜夜に頼んだってこと?」
「は…………はい! そうです、そうなんです! 司君が顔を合わせづらいからって私に頼みこまれちゃって」
「おい、そんな事を頼んだ覚えは――」
給水塔の方からそんな声が聞こえたような気がしたが、桜夜はこの状況を好機と見るなり勢いだけでまくし立てることを決める。握っていたチケットを二枚を強引に手渡したところでちょうどチャイムが鳴り響いた。
「あの、詳しいことはまたお話しますから! それじゃ、失礼します!」
そして二人を置き去りに桜夜は逃げるようにして行ってしまった。
司も忍も次の授業がある。揃って片づけを済ませ教室に戻ろうとした時、不意に忍が呟く。
「司、あの子……どう思う?」
「…………別に」
恐らく、忍も司と同じ何か“引っ掛かり”を感じているのかもしれない。だからと言って司がここで言及する必要は何処にも無い。
司が感じている引っ掛かり。
――何故、桜夜は“忍”も巻き込もうとしているのだろうか。
未だ迷走気味なコイヒメサクヤ第九話。
……うぅん、充電期間が必要なのかなぁ。
ちょっと悩んでます。
次話は、とりあえず来週のこの時間をば予定しております。
では、待て次回。




