月影(後)
春花が京都に戻ってきたのは、仲秋の名月の日だった。
彼女の髪の色は、またミルクティー・ベージュになっていた。
「わたし、居場所がなくなっちゃった」
再会するなり春花はそう言って、薄い笑みを顔に浮かべた。
彼女の話によれば、父親は退院はできたものの全快ではなく、神社の宮司は代行者に、学園の経営は理事会に、それぞれゆだねる話し合いが進んでいるらしい。
千歳さんの言ったとおりに、現実が進んでいる。それはつまり、春花の行く末も千歳さんの意向の通りになる可能性が高いということだ。
僕は焦りを感じながらも、春花が口にした、居場所がなくなったという言葉がひっかかった。
「春花はもしかして、金沢に帰りたいの?」
ペリドットの瞳に僕を映したまま、春花は、僕の問いかけに肯定も否定もしなかった。そのかわりに、彼女は「わたし……」と、口調を改めた。
「どうしたらいいのかな。母は、龍一さんとのことを、本気で進めるつもりみたいなの。でもわたし、智之くんと別れたくないの」
春花が千歳さんの要求を受け入れていないことは、嬉しかった。
けれど。
一之宮神社で例大祭のポスターを見たときに気づいてしまったことが、改めて僕のなかではっきりとした輪郭を得た。
春花はきっと、肝心なことを、その笑顔の裏側に――心の扉の奥に隠している。そしてその扉を、誰も、そう、この僕もまだ開けることができていないのだ、と。
四人が久しぶりに揃ったので、僕たちは嵐山で月見をすることにした。
昼間は観光客で賑わう渡月橋だが、陽が落ちれば人影も少なくなる。涼しい川風を受けながら、僕たちは渡月橋から東の空を見上げた。
京都の街並みの上に、ぽっかりと満月が浮かんでいる。象牙色の月は、地上から見上げる人々の眼差しを一身に集めながらも、虚空でぽつんと寂しさをまとっていた。
欄干に身を預けた真優理が、その身に月光を浴びながら、川風に乗せて一首の和歌を口にした。
「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞ澄む」
「なんですか、それ」という僕の問いかけに、真優理はふふんと胸を張った。
「法然上人の有名な歌や。月の光はどんなところにも届いてるけど、それに気づいて、はじめてその美しさやありがたさがわかる、という意味の歌やな。そこから転じて、御仏の救いは誰にでも向けられているけど、それを信じる人だけがその恩恵を受けることができる、という教えにもなってる」
「さすがは、お寺の娘ですね」
「宗派はちがうけどな」
軽口で笑いを誘った真優理だが、すぐにその表情を引き締めた。
「まあ、月の光なんてもんは、いわゆる方便や。何かを信じられるからこそ、強くもなれるし、前にも進める。そういうことやと思ってる」
真優理らしい言葉だと、すこし前の僕なら簡単に片づけられていただろう。けれど、今は、そこにわずかな違和感を覚えずにはいられなかった。真優理の言葉は、いったい誰に向けられたものなのだろうか。僕か、春花か、あるいは……。
それに思いを致す前に、高橋先輩は腕時計に目を落として「時間やで」と告げた。
普段は昼間しか営業していない大堰川の屋形船だが、仲秋の名月の前後の日は、月見船として夜にも運航される。
屋根から下がる提灯の灯りが闇を照らし、静寂のなか船頭が差す竿で屋形船は進む。黒い川面には揺れる月が、そしてその彼方には渡月橋があった。
満月が、まるで橋を渡るかのように見えた。
平安時代に亀山上皇がまさにこの景色を見て、「くまなき月の渡るに似る」と詠ったというが、さもありなんと思う。
スピーカーから流れる篠笛の曲が哀調を帯びると、春花が川面の月を見てぽつりとつぶやいた。
「月の光って、わたしにも届いているのかな」
ああと、真優理が応える。
「あたりまえやないか。そんなもん、区別も差別もないわ」
じゃあと、俯いたままで春花が問いかける。
「真優理ちゃんは、それを信じて、手を伸ばせるの?」
はあと、真優理はため息をついた。
「伸ばさへんかったら、何にも届かへんし、何も掴まれへんやろ」
でも、と春花が問いを継ぐ。
「手を伸ばしても掴めないってわかってて、それでもまだ何かを信じることができるの?」
真優理が、言葉に詰まった。
春花は、川面に両手を差し込み、そのまま水をすくいあげる。彼女のちいさな掌にできた水たまりに、ひととき満月が宿る。
けれど水はすぐにこぼれ落ちて、月は跡形もなく消えた。
「手にむすぶ 水にやどれる 月影の あるかなきかの 世にこそありけれ」
春花がぼそぼそと紀貫之の和歌を詠むと、それまで黙って月を見上げていた高橋先輩が、「あのなあ」と呆れたように声をあげた。
「雰囲気だすんもええけどな、月は俺らを救うために光ってるんやないし、水は月を映すためにあるんやない。それぞれが、そこにそれとしてあるだけや。結局のところ、俺ら自身がどうしたいのか、どうするのかということやろ」
高橋先輩の言葉は、月光よりも深く静かに胸に沁みた。
けれど。
春花は川面に目を落としたままで、真優理は空を見上げたままで。そして僕は、そんな二人を見やるばかりだった。




