月影(前)
彼岸になっても、春花は京都に戻らなかった。
路子カフェのランチには、小西先生が調理した里芋と薄揚げの煮物や白和えなどが並んだ。春花よりも薄味だった。
小鉢の胡麻豆腐を食べていると、真優理が「なあ星河……」と僕に声をかけてきた。
「明日なんやけどな、ちょっと手伝ってほしいことがあるんや。もちろんバイト代は出すで」
どうしようかと迷ったが、気分転換になると思って、僕は「わかりました」と答えた。
真優理の表情が、ぱっと明るくなった。
「ほんなら、今夜から泊まり込みで頼むわ」
詳しく聞けば、早朝の座禅体験会の手伝いだった。
真優理の実家は、路子カフェや大学のある場所から北に上った鷹峯にある。歩いても三十分ほどだから、わざわざ泊まり込みしなくてもいいように思えたが……。
「明日は、五時起きやからな」
客間に布団を敷きながら、真優理は、ご来光でも拝むのかと思うほど早朝の起床時刻を通告した。
「いつもやったら、スタッフさんが泊まり込みで手伝うてくれるんやけど、急病で来られへんようになってもうて。ほんま、助かったわ……」
真優理は事情を説明したあと、「なあ、智之」と優しい口調で続けた。
「春花がおらんようになって、寂しいやろ?」
その言葉は、僕の心の空隙にするりと入り込んできた。
不意に、涙が滲んだ。
慌てて顔を背けると、柔らかい腕でそっと抱かれた。香水の匂いはしなかった。そして耳元に、チェロの音色のような艶やかで甘やかなささやき声がした。
「それやったら、ウチが今夜、相手したるわ」
真優理の言葉の意味はわかっても、どう応じればいいのか、僕は決められなかった。
やがてため息とともに腕が解けて、こつん、と額を指で弾かれた。
「ほんまに、しょうもない男やな、あんたは。こういう時は、押し倒すんが礼儀やで」
寂しげな笑みを浮かべた真優理は、「ウチに恥をかかせたんや。明日はたっぷり働いてもらうで」と言って立ち上がった。
真優理が出て行って、敷かれた布団に入る。
旅館のようにふかふかで寝心地が良かったけれど、目を閉じると、宵山で春花と真優理が交互に無言詣でをした場面が何度も思い返されて、寝つけなかった。
眠りかけては目覚め、寝返りとため息ばかりくりかえすうちに、ぱっと照明が点いて真優理に起こされた。
通告どおり、時計は午前五時だった。
真優理の指示で、畳敷きの本堂に掃除機をかけてから、丸い茣蓙を並べていく。
ふと目をやった漆喰の壁には、普通の四角い窓と並んで、丸い窓が開いていた。京都の寺院や書院でときどき見かける丸窓だが、ここのものは周囲に意匠はなく、ぽつんとくり抜かれている。素朴な窓だが、妙に心が惹かれた。
掃除が終わったあとは、受付と案内を頼まれた。
こんな行事にどれほどの人が来るのかと思ったが、午前六時をまわると、続々と参加者が現れた。
真優理はひっきりなしにやってくる人々に、お茶の接待をしていた。
たしかに助っ人が必要だと納得した。
座禅体験会が終わったところで、握り飯と味噌汁の朝食を振舞われた。
大きな椀になみなみと満たされた味噌汁には、たっぷりと根菜が入っていた。それだけで、十分な御馳走だった。
エプロンをかけて給仕をする真優理の姿は、新鮮だった。
「なんや、その顔は。ウチも家事くらい、できるわ」
真優理はおにぎりをかぶりながら、「家事だけやないで」と言って父親に目を向けた。
「卒業したら教員免許がとれるから、幼稚園を継ぐつもりや。それからこの寺もな」
その言葉を、真優理の父親は聞き流した。
「また、だんまりや。けど、ウチは諦めへんし、負けへんで。誰にもな」
真優理の宣戦布告もどきの言葉をも、父親は一顧だにせず、味噌汁をおいしそうに啜った。
ご住職ともなれば、さすがの貫録だなと思う。
同時に、僕は違和感を抱いた。
真優理は「期待されていない」と嘆くが、わずかに口元に苦笑を浮かべた父親の表情は、すくなくとも拒絶を感じさせなかったし、期待をしていないというような見下した態度にも見えなかった。むしろ、頓珍漢なことを言い募る出来の悪い弟子を、しかたのないやつだと見守る師匠のように見えた。
味噌汁のお椀を机に戻した父親は、「ごちそうさま」と瞑目して合掌した。そして、つぶやくように、短い言葉を口にした。
「如実知自心」
小さな声だったが、はっきりと僕の耳に届いた。
真優理にも聞こえたはずだが、彼女は知らん顔で湯のみのお茶を飲んだ。
帰り支度をすませて本堂を通りかかると、真優理が座禅をしていた。声をかけるべきか迷っていると、「なあ智之」と呼ばれた。
「あんたもちょっと座らへんか。こうしてると落ち着くで。この窓な、四角いのが『迷いの窓』、丸いのが『悟りの窓』って言われてるんや」
「丸い窓を見たら悟れるんですか?」
僕の問いに、真優理はふっと表情を綻ばせた。
「あほなこと言わんとき。そんなんで悟れるんやったら、だれも苦労して修行なんかせえへんわ」
「そうですよね」
じゃあと言いかけたとき、独り言のような真優理の声がした。
「この寺な、跡継ぎがおらへんねん。そやから親父の後は、他所から住職が来ることになるんや。そんなん、嫌や。けど、親父はウチには何も言うてくれへんのや……」
見ててわかったやろ、と真優理は項垂れて声を落とした。
「昔と違って女でも僧侶にはなれるけど、親父が認めてくれへんかったら、住職にはなられへんねん」
はあ、と真優理の口からため息がこぼれた。
「ウチはただ、親父に恩返しがしたいだけやのにな……」
最後は消え入るような声だった。
真優理が口を閉ざすと、開け放たれた窓から、早朝の涼風が吹き込んだ。再び瞑目した彼女に背を向けて、僕は本堂を後にした。




