送火(後)
送り火の翌日、僕は春花と一緒に特急サンダーバードで金沢に向かった。
春花は憔悴した顔つきで、だまって車窓を見ていた。会話もなく、コンビニエンスストアで買った飲み物にもほとんど口をつけず、琵琶湖を見送り、北陸トンネルを抜けて、青い山々の連なりを眺めるうちに、車内に金沢到着を告げるアナウンスが流れた。
ひと駅戻って北陸鉄道の電車に乗り、終点で降りる。駅から十分ほど歩くと、手取川の畔に建つ大きな総合病院に着いた。
受付で事情を話すと、春花だけが面会を許された。
ICUに向かう春花の空色のワンピースを見送って、僕は近くにある待合室の椅子に座った。スマホを取り出し、小西先生たちに連絡をしようとして、ここでは使用禁止かなと考えていると、春花が戻ってきた。
僕の隣に座ると、春花はほうっと深い息をした。
「窓ガラスごしに顔が見えただけで……。あまり良くないみたいなの。詳しいことは、母が来てから話すって」
そこまで聞いたところで、「春花」と彼女の名を呼ぶ女性の声がした。
白いブラウスにゆったりとした黒のスカートをはいた、四十歳くらいの女性だった。顔つきが春花によく似ていたから、紹介されるまでもなく彼女が母親だろうと想像がついた。
案の定、春花は「お母さん」と応じて、けれどそのまま口を噤んだ。その表情から、感情がすっと抜け落ちた。
僕は席を立って、軽く会釈をした。彼女も会釈で応じる。その仕草も春花に似ているなと思った。
僕は、近くにあった椅子を引き寄せて、春花の母親に着席を勧めた。
「ありがとう」と答えて、彼女は腰を下ろす。
三人が席についたところで、春花が抑揚のない声で僕を紹介した。
「大学のお友だちの、星河さんです」
お友だち、という紹介は不本意だったが、こういう状況ではそれもしかたないなと思う。
「はじめまして、星河智之です」
僕の挨拶に、彼女は「あなたが……」とつぶやいてから、「天水千歳です。娘がお世話になっているようですね」と、硬い声で名乗った。母親というより、商談に同席した上司のようだった。
自己紹介が終わると同時に、看護師がやってきて「天水さん、こちらへ」と声をかけた。
春花たちが戻ってきたのは、一時間ほどが過ぎた後だった。
二人とも表情は暗かったが、千歳さんはすっと胸を張ると、「春花」と娘に声をかけた。
「そして、星河さんもです。大事な話なので、しっかり聞いてくださいね。残念ながら、主人はもう一之宮の宮司も学園の理事長も続けることはできないでしょう。そうなっても、春花は跡を継ぐ必要はありません。そのまま京都に残りなさい……」
「え」と、僕は驚きを口にしてしまった。
春花は、家を継ぐことに悩んでいた。その必要がなくなるのなら、重責から解放されて自由に自分の将来を決められるということだ。春花の父親には申し訳ないが、これは僥倖というべきだろう。
なのに。
春花の顔は、いままで以上に暗くなった。その表情の理由を考えるよりも先に、千歳さんが言葉を続けた。
「……そして、龍一さんと結婚して、日野家に復帰するのです」
思いがけない発言に、僕は唖然とした。けれど、春花はさして驚いた様子もなく、「でも」と口を開いた。
「お父さんは、わたしに一之宮を継いでほしいって……」
春花の話を最後まで聞かずに、千歳さんは「いいえ」と首を横に振った。
「その必要はない、と言いましたよ。それで分からないのなら、言いなおしましょう。今までなにもしてこなかったあなたが、付け焼刃のように教員資格を取っても学園の経営などできるわけがありません。神職も同じです。祝詞がちょっと上手いくらいで、神社を切り盛りできると思ったら大間違いです。学園と一之宮は、しかるべき人に託します。あなたにとっては、日野家に入ることが、いちばんいいのです」
千歳さんの話は納得しがたいものだったが……僕のなかで、流し雛のときの理事長や宮司さんの会話が、すべてつながった。春花にとっては、父親の希望を叶えるのも、母親の期待に沿うのも、どちらも家というものに縛り付けられることに他ならないのだ。
黙り込んだ春花から僕に目を移すと、千歳さんは「ごめんなさいね」と頭を下げた。
「そういうことなので、娘と別れてもらえますね」
物腰は丁寧だが、あまりに一方的なその言葉に、僕は憤りを覚える。
春花も顔色を変えて、「お母さん」とめずらしく声を荒げた。
「そんなこと、勝手に……」
抵抗する春花の言葉を、千歳さんは「もういいわ」と遮った。
「あなたに何が決められるというの。これは、私たちの家の問題です。あなたの身勝手で、よそ様を巻き込むことは許されません。この方と別れて、日野家に嫁ぐ。それがあなたを京都に帰らせる条件です」
問答を切り上げて仕事に戻った千歳さんと、しばらく看病したいという春花を残して、僕はひとりで病院を後にした。
あとは京都に帰るだけだったが、僕は駅には向かわずに県道を南へ向けて歩いた。ここからそう遠くない、春花の実家の神社に行ってみようと思った。
病院から三十分ほど歩くと、「一之宮神社」という道路標識が出ていて、広大な駐車場があった。多くの乗用車が停まっていて、大型の観光バスの姿もあった。
駐車場の奥に立つ鳥居を潜ると、梢の高い杉や欅が列をなす石畳の参道がゆるやかに登っていた。
緑陰の参道をたどるにつれて、僕の心と足は重くなっていった。その得体の知れない重圧は、参道の終点の神門の前に立ったとき、はっきりとした姿で僕にのしかかってきた。
そこにあったのは、想像をはるかに上回る大きな神社だった。
鬱蒼とした鎮守の森に抱かれた境内には、重厚な社殿が建ち並んでいて、平日の午後とは思えないほど大勢の参拝客がいた。先代の天皇が手づから植えたという杉の木がそびえ、鉄筋コンクリートの旅館のような研修所には講の法被を着た人たちがせわしなく出入りをしていた。
社務所では、何人もの巫女が参拝客にお守りを売っている。そのガラス窓に貼られた例大祭のポスターに、僕の目が釘付けになった。ポスターの中央で、十二単を身にまとった春花が、人形のような微笑みを浮かべていた。
その笑顔は、僕に流し雛を思い出させた。
『一之宮のお嬢さん』
『当代の菊理媛』
春花をそういうふうに呼んだ上賀茂神社の宮司さんの言葉が、ポスターの春花の作り笑いに重なる。
不意に、僕の心でなにかが形をなしかけた。けれど。
『娘と別れてもらえますね』
耳に残る千歳さんの言葉が、それを打ち砕いた。
娘の願いに耳を傾けもせず、一方的に将来を決めつける千歳さんには、反発しかなかった。なのになぜか、この場所に立ってその言葉を思い返せば、ずしりとした重みをともなって、じわじわと僕の心を浸食してきた。
僕はそれを振り払うように、ガラスに映った泣き出しそうな自分の顔から目を背けた。




