火祭(前)
「鞍馬の火祭りに行きなさい。春花を連れてね」
路子カフェでランチの鯖の味噌煮をつついていると、小西先生が改まった声でそう告げた。
鞍馬の火祭は、京都の北方鎮護を担う由岐神社の例祭だ。遷宮のときの篝火を模した大松明を、男たちが担いで鞍馬寺の山門に押し寄せるという、京都三大奇祭のひとつに数えられる祭りだ。
「行くのはいいですけど、なぜ火祭りなんですか」
僕の問いに、小西先生は髪を乱暴に搔き乱しながら、「君たちがぐずぐずしていたからだよ」と、苛立った声を上げた。
「千歳姉さんが京都に来るんだ。君たちと、それから日野の伯父に会うためにね」
春花と別れて欲しいという千歳さんの要求を、僕たちは棚上げしている。どうやら、期限が切れたらしい。
「わたし、行きたくない」
春花の拒絶に、僕も言葉を合わせる。
「僕も行きたくないです」
僕と春花の回避を、小西先生は「だめだよ」と切り捨てた。
「千歳姉さんの性格はよく知っている。逃げは悪手だ。立ち向かうしかないんだよ、君たちは……」
その言葉に、僕もそれしかないだろうと思い直す。
その決意を察したように、小西先生は僕と春花の肩にそっと手を置いた。
「だから火祭なのさ。ここは、今も陰陽五行の思想が息づく地、京都だよ。その力を借りない手はない」
火祭りの当日、僕はジャケットを羽織り、春花は薄青の着物で千歳さんとの面会に臨んだ。
すし詰めの叡山電車から鞍馬駅に降りると、そこはまさに人の海だった。時刻は十八時を過ぎていて、あたりはすでに暗かった。山間だから気温はかなり下がっているはずだが、この人いきれのなかでは、寒さは感じなかった。
僕たちの到着を待っていたかのように、「サイレイヤ、サイリョウ」という男たちの掛け声が上がった。篝火がいっせいに焚かれ、法被に褌姿の男衆が担いだ松明に火が点けられた。煙とともに、オレンジ色の炎が燃え上がる。
辻々に立つ警察官が、「立ち止まらないで、歩いて下さい」と声を張り上げる。けれど満員電車さながらの渋滞で、わずか数メートルを進むのにも時間がかかった。
ようやく鞍馬寺の山門前に辿り着くと、松明が集結しているところだった。ぱちぱちと爆ぜる音がして、火の粉が散る。炎が天を焦がし、男衆たちの掛け声も熱を帯びた。
山門の隣に建つ料亭の暖簾をくぐり、名前を告げると、二階の座敷に案内された。
開け放たれた窓からは、燃え盛る松明と、それを担いで声を上げる男衆たちの姿が真下に見えた。炎の熱さえ感じられる近さだった。
喧騒のなか、千歳さんはひとりで窓際の席に座っていた。
白い生地に紅葉と銀杏が散らされた着物を着て、結いあげた髪には金細工の菊の簪が光っていた。
僕たちが前に座ると、千歳さんがゆっくりとこちらを向いた。向けられた眼差しは、涼やかに凪いでいた。
「それで……」
抑揚を抑えた、けれどはっきりと耳に届く声で、千歳さんが問いかけた。
「あのときの答えはどうなりましたか」
春花の眼差しが僕に向く。そこには、期待と不安が同居しているように見えた。
僕は覚悟を決めた。
春花に頷き返し、千歳さんの目を見ながら僕は口を開く。
「春花と別れるつもりはありません」
その答えに、千歳さんはため息で応じた。
「春花は日野家に嫁がせる、と言いましたよね」
確認するような千歳さんの言葉に、先に反応したのは春花だった。
「それは、お母さんたちが勝手に決めただけでしょ。龍一さんは、わたしとのことなんて迷惑に思ってる。だから、流し雛にも来なかったし……」
娘の抗弁をさえぎるように、千歳さんが「いいえ」と口を挟んだ。
「龍一さんは、そんないい加減な人ではありません。それに、彼はあなたを大切に思っています。流し雛を欠席したのは、あなたの未来を縛りたくなかったからだと、私は考えています。あなたも、それはわかっているはずですよ」
悔しいが、千歳さんの言葉は間違っていないと思う。一度しか会ったことはないが、彼の態度からそれは想像できる。僕でさえそうなのだから、春花が気づいていないわけはない。
「さて」と前置きして、千歳さんはあらためて僕を見た。
「星河さん、あなたは、春花をどうするつもりなのですか」
なぜ春花の意見を聞かず、僕が先なのだろう。その違和感が、僕の口を噤ませた。
黙ったままの僕を、千歳さんは急かさなかった。姿勢も態度も、そしてきっとその内心も、おそらく微動だにさせずに、彼女は僕の答えを待っている。
とにかく、なにか答えないといけないと思った。
窓の外から聞こえる男衆の掛け声が、僕の背中を押してくれているような気がした。
僕は深呼吸をひとつして、答えを吐き出した。
「春花がしたいと思うことを、させてあげたいと思います。僕が春花を支えます」
僕の渾身の言葉に、千歳さんは、顔色も変えずに「いい答えですね」と応じた。
「ですが、それでは、あなたたちのことを認めるわけにはいきません。なぜだか、わかりますか」
どこまでも冷静な千歳さんの言葉に、僕は圧倒されていた。教師から進路指導をされているような気分だった。
答えを返せない僕から、千歳さんは春花に眼差しを向けた。
「では、春花に尋ねましょう。あなたは、星河さんとどうしたいのですか」
「わたし……」と、春花は口ごもった。
その瞳が、僕と千歳さんの間をさまよう。ミルクティー・ベージュの髪で、小菊の髪飾りが不安げに揺れた。
口を開き、けれど言葉にできず、また口を閉ざす。そんなことをなんどか繰り返してから、春花はか細い声で言った。
「わたし、智之さんと一緒に……」
「一緒に、どうしたいの。あなたの意思を、ここではっきり示してみなさい」
千歳さんが、春花を追い詰める。
春花は、なにも言い返せなかった。
やがてペリドットの瞳が波立って、そして雫がひとつふたつと滴り落ちた。
涙を拭うこともせずに、春花は席を立って背を向けた。
震える春花の華奢な背中に、千歳さんの言葉が突き刺さった。
「そうやって、また逃げるのですね」




