宵山(後)
無言で歩くうちに、保昌山が見えてきた。
ここも賑わっているが、他の山鉾よりも若いカップルが多かった。平安時代の恋話に由来した山だからだろう。
僕たちが到着するのを待っていたかのように、会所に座った浴衣姿の女の子たちが、「せえの」と声を揃えて、お守りを売るわらべ歌を口にした。
「縁結びのお守りは、今夜限りでございます。信心の御方様は、受けてお帰りなされましょう」
その可愛らしい声に、僕は救われたような気分になった。
真優理も穏やかな笑顔に戻って、子どもたちからお守りを買った。彼女は、浴衣の懐に押し込んだお守りをぎゅっと握り、そして僕を正面から見た。
「これから無言詣りをするから、ウチに声かけんといてな」
そう言い残して、真優理は保昌山から北に向けて歩きだした。
無言詣りは、本来なら、明日の夜から七夜にわたって四条の御旅所に願掛けに参拝する、祇園花街に伝わる秘事だ。道中も参詣中も無言で通すことができれば願いごとが叶うが、口をきいてしまえば願いごとは叶わないといわれている。
真優理は、人ごみに紛れて姿が見えなくなってから、引き返してきて保昌山に向かって頭を下げた。伏し目がちに願をかける彼女の横顔を、掛け連ねられた提灯の淡い光が照らす。その顔は、広隆寺にある国宝の弥勒菩薩像を思わせた。
三度目に真優理が人ごみに消えると、反対側から、薄緑の生地に色とりどりの朝顔が咲いた浴衣を着た春花が、足早に歩いて来た。彼女は保昌山に向かって軽く頭を下げると、踵を返してまた南へ歩いていった。願掛けにしては短いし、得意の祝詞は唱えていないようだった。
背筋がしゃんと伸びた春花の後ろ姿を見て、僕はやはり真優理と似ているなと思った。背格好は違うのだが、髪型が同じ黒のストレートということもあってか、受ける印象はそっくりだった。路子カフェで二人を見間違えた理由はこれか、と僕は納得した。
二人は、見事なくらいに入れ違いでお詣りをしていた。けれど、回数を重ねるごとに、その間隔はどんどん短くなっていった。
このぶんでは、いずれ顔を合わせることになるだろう。それはまるで、川端康成の『古都』で、生き別れた双子の姉妹が出会うきっかけになった場面のようだった。もしかしたら小西先生は、この事態を予想してあんなことを言ったのかもしれない。
はらはらしながら眺める僕の肩を、後ろから誰かがぽんと叩いた。驚いて振り向くと、高橋先輩が立っていた。
「あれな、七度目までにぜったい鉢合わせするで」
水を差すような高橋先輩の言葉に、僕は「そんなのかわいそうじゃないですか」と言い返した。
「ふうん」と答える高橋先輩の口元がはっきりとゆがむ。
「星河は、あの二人がどんな願掛けしてるか、知ってるんか?」
問われて、僕は答えに窮する。
春花の願いは、あるいは僕とのことかもしれない。おこがましいが、そうであって欲しいと思う。では、真優理はどうなのか。仏教徒の彼女が、神頼みをしなければならない願いとは、なんなのだろう。
僕が「いえ、知りません」と首を振ると、高橋先輩は、険しい眼差しを保昌山に向けた。
「なあ星河。祇園祭の起源は、都の厄災払いやで。山も鉾も、厄災をその身に集めるためのもんや。そんな世のため人のためみたいな願掛けを、あの二人がしてると思うか? 天水なんて、真優理が無言詣りらしきことをしてるのを見てから、始めたんやで」
そう言いながら高橋先輩が投げた眼差しの先で、保昌山に帰ってきた真優理と、願掛けを終えた春花が、正面から出くわした。
春花が「あら」と笑いかけ、真優理は「ええっ」と顔を曇らせる。
高橋先輩の横顔に、なぜか、安心したような微笑みが浮かんだ。
「天水は七回済んだから成就や。良かったな、星河」
四人そろったところで、僕たちは四条通を河原町に向けて歩きだした。
この後は、小西先生に紹介された店で夕食をとることになっている。
けれど、それほど歩かないうちに、春花がお手洗いに行きたいと言い出した。ちょうど京都髙島屋の前だった。
閉店が近い時刻だったが、店内はにぎわっていた。
春花と真優理はトイレに行き、けれど春花はひとりですぐに戻ってきた。
そして、僕でも名前を知っている有名ブランドの化粧品売り場の前に立ち、高橋先輩を手招きすると、ショウケースの中を指さした。春花が指し示したのは、ちいさな四角いガラス瓶の香水だった。瓶の首には、飾りのリボンがまかれていた。
頷いた高橋先輩は、迷わずそれを買い求めた。
先斗町の賑わいに埋もれるように店を構える小料理屋で、鱧料理を肴に伏見の酒を飲み、僕たちは酔いをさますために鴨川の岸に降りた。
喧騒は川風に吹き流されて遠く、橋上では聞こえない涼やかな瀬音が近くなる。
仲よく四人で並ぶのかと思ったら、春花は僕の手を引いて、真優理と高橋先輩からすこし離れた場所に座った。見回せば、辺りにはそんなふうに等間隔で座るカップルが何組もいた。
高橋先輩の隣からうらめしそうにこちらを見やる真優理の眼差しを遮るように、春花が僕に顔を寄せて耳打ちをした。
「高橋くんがね、真優理ちゃんにプレゼントしたいらしいの」
そういうことか、と僕は思った。
心の奥底に、わずかな引っ掛かりはあった。けれど。
真優理の無言詣りが、そしてあの葵祭の一件が、そういうふうに落着するのなら、それはそれでいいことなのだと、僕は自分に言い聞かせた。
「それから……」
春花が、浴衣の胸元からなにかを取り出した。
「これは、わたしから智之くんに、だよ」
手渡されたのは、五瓜唐花と三つ巴の神紋が描かれた丸い木の実のような、元祇園梛神社のお守りだった。そのご利益は、梛の葉はちぎれにくいことから、「縁が切れない」というものだ。
宵山の熱量に当てられたのか、日本酒の酔いが回ったのか、僕の心は高揚した。




