宵山(前)
祇園祭は、七月一日の「吉符入」から七月末日の「疫神社夏越祭」まで、一カ月にわたって行われる八坂神社の祭礼だ。けれど世間に広く知られているのは、十七日の山鉾巡行とその前夜の宵山だろう。わずか数日で三十万人もの観光客がやってくる、京都のみならず日本でも指折りの大祭だ。
高橋先輩が僕たちを誘ったのは、その宵山見物だった。
待ち合わせ場所の路子カフェに行くと、小西先生が紅茶を飲みながら文芸誌を読んでいた。
その向かい側の席には、春花が背を向けて座っていた。おろした黒髪が、黒い生地に白い百合が咲いた浴衣の背に流れている。髪型も服の色も、春花にはめずらしい組み合わせだと思った。
だが、それよりも、ここに春花がいることが意外だった。春花と高橋先輩は教育実習があるから、それが終わってから現地で合流することになっていたはずだ。
春花は、小西先生と話し込んでいたようだった。
予定が変わったのだろうか、と訝しみながら、僕は「こんにちは」と声をかけた。
こちらを向いた小西先生は、「やあ」と言って片手を上げた。すでに客だとも思っていない様子だった。
僕も、「どうも……」とだけ返しておいて、「春花?」と黒い背中に呼びかけた。
「ああ?」
語尾を上げながら答えて振り向いたのは、真優理だった。
僕は混乱する。他人の空似というのは、たぶんちがうだろう。後ろ姿とはいえ、どうして春花と真優理を見間違えたのか。しかも、今日ここに春花がいないとわかっていながら。
「なんや、そのいかにも残念そうな顔は」
口をとがらせる真優理を残して席を立った小西先生は、呆然と立ちつくす僕のそばにくると、耳打ちをした。
「宵山見物に行くのなら、君は今夜、生き別れた春花の姉妹と出合うことになるよ」
混乱に追い打ちをかけるかのような小西先生の予言だったが、僕は逆にそれで冷静になった。
「『古都』の苗子ですか」
縁なし眼鏡の奥で、小西先生のオッドアイがすうっと細くなる。
「ほう、ちゃんと読んでいるようじゃないか。だが、そうか。私は姉妹と言ったのに、君は春花を千重子だと思ったわけだ」
もうひとりは誰を想定して姉妹などと言うのかはさておき、老舗呉服店のひとり娘という千重子の境遇は、まさに春花のそれだ。事情を知れば、そう答えるのが当然のように思えた。
「ちがうんですか? だいいち、春花に兄弟姉妹はいないでしょう」
僕の問いかけに、小西先生は「そうだよ」とあっさり言い切る。
話についていけずに首をひねる僕との会話を、小西先生は「じゃあ、仲よく行っておいで」と一方的に切り上げた。
地下鉄を降りて地上に出ると、歩行者天国になった四条通と烏丸通には雑踏と熱気があふれていた。
まっすぐに歩くこともままならない人波だが、それでも、屏風などの会所飾りを眺め、鉦と太鼓が奏でるコンチキチンの囃子を聞くと、胸の中を清かな風が吹き抜けるような心持になった。
「やっぱり京都の夏は、祇園祭と送り火やな。今年も来れて良かったわ」
真優理が、目を細めてそう言った。ほんとうにそうだと、僕も思った。
四条通や新町通に並ぶ山や鉾を、観覧して周る。
春花が和装でも普通に歩けるのは知っていたが、真優理も負けず劣らず颯爽と歩いていく。
長刀鉾を参観したあと、真優理は「ちょっとつき合ってや」と言って、東洞院通を南に下った。
並んで歩きながら、真優理は「なあ、智之」と、あらたまった様子で話しかけてきた。
「大きなお世話やろうけどな。あんたと春花を見てたら、なんや心配でな」
「心配?」
「ああ、心配や。うまいこと言えんけど、お互いに逃げ場所になってしもてるんちゃうかと思えてな」
真優理が口にした「逃げ場所」という言葉は、僕の心の深いところをいきなり刺した。
春花はまちがいなくそこを逃げ場所にしていると、自分自身で語っていた。僕にしても、心当たりがないわけではない。
「そうかもしれないけど、誰にだって、そういうときってあるでしょ」
僕の答えに、真優理がはあっとため息を落とした。
「そんなことでどうするん。大学はモラトリアム期間やないねんで。ウチらはいずれ、子どもらの将来にかかわる仕事をすることになるんや。いつまでも逃げ回っとらんと、やるべきことはちゃんとやる人間にならへんかったら、子どもらの面倒なんてみられへんで」
まったく真優理の言う通りだった。だが、自覚があるだけに、僕は素直にそれを認めることができなかった。
「真優理は将来が決まってるから、そんなことが言えるんだよ。でも僕たちには、まだなにもないんだ」
我ながら、みっともない言い方だと思う。
僕の心中を見透かしたのかどうかはわからないが、真優理は表情を曇らせて肩を落とした。そして。
「……」
なにかをつぶやいた真優理の声は、喧騒に紛れて、僕の耳には届かなかった。
「なんて言ったの」
聞き返した僕に、真優理は俯いて、「そういうことやないんや」と、苦しげに吐き出して、そのまま口を噤んだ。
その横顔は、なにかを後悔しているかのように歪んで見えた。
どうして、こうなってしまったのだろう、と僕は思う。そして、ついさっきまでの楽しい祭り見物の時間に戻りたい、と心から願った。




