落文(前)
カメラを上に向けると、ファインダーの中に、水路閣のレンガのアーチと、青空を渡る白い月が納まった。
いい絵だ、と思った。だが……。
「どっち向けて撮ってんねん。ええか、ウチの顔を左に寄せて、視線の先に水路閣を入れるんやで」
真優理先輩の声が、ファインダーの外から聞こえてきた。
急な呼び出しに応じて南禅寺に来てみれば、待っていたのは、マネの絵画から抜け出してきたような、黒いゴスロリ衣装を身に着けた真優理先輩だった。その姿を見て、この恰好でお出かけもするのかと僕は驚いた。だが、古刹の境内にあっても、その身なりが馴染んで見えた。
言われるままにフレーミングする。
途端に、ファインダーの中に物語が生まれた。感心しながらシャッターを切り、「撮れました」と返事をした。
モニターで写真を確認した真優理先輩は、「まあまあやな」と寸評したあと、「次は哲学の道や。行くで」と北に顔を向けた。
南禅寺を出て永観堂を右手に見ながら歩き、角を曲がって緩やかな坂道を登り切ると、生垣の下の暗渠から流れ出した琵琶湖疎水に行き当たる。
ここから疎水に沿って東山の裾を北上する約二キロの遊歩道は、「哲学の道」と呼ばれている。もとは疎水の管理用通路だったが、その落ち着いたたたずまいを好んだ文人や学者が思索にふけりながら歩いたことから、その名がついたという。
時には涼しい風が吹く青紅葉の木立を抜け、時にはじっとりと蒸し暑い陽光に焼かれながら、清流を追うように僕は真優理先輩と前後しながら石畳を歩く。
疎水の清流には、鴨の親子が遊び、大きな鯉が流れに逆らって尻尾を揺らしていた。
ところどころで撮影を命じられ、その度に注文をつけられて、今日だけでも数十枚は真優理先輩を写していた。
「あんたの気に入った表情があったら、いちいち断らんと撮ってええで。ただ、ウチの見合い写真にするかもしれへんから、実物より綺麗に撮らなあかんで」
真優理先輩はそう言うが、こうしてファインダーごしに見れば、彼女はほんとうに整った顔だちをしていると思う。春花はかわいらしい印象だが、真優理先輩は美人という形容がぴったりだ。
梅雨のさなかの好天を楽しむように、哲学の道を歩く人は多かった。男女を問わずそのほぼ全員が向けてくる視線のうち、半分は彼女の衣装にだろうが、残りの半分は彼女の美貌にだろうと思った。
ゆっくりと歩みを進めていた真優理先輩は、道端に据えられた石碑の前で足を止めた。
隣に並んで覗き込むと、むっくりとした石の表面にくねった文字らしきものが彫られていた。解読を試みたが、いくつかの文字が判読できただけだった。
けれど真優理先輩は、「ひとはひと われはわれなり とにかくに われゆくみちを われはゆくなり」と、流暢に詠みあげた。
こんな文字がよく読めるものだと感心しながら、僕はその言葉に、綾乃を思い浮かべた。
綾乃はまさに、この言葉どおりに、自分が選んだ道を自力で歩いていくのだろう。けれど、僕はまだ、誰かに手を引いてもらうなり、背中を押してもらうなりしなければならない。
悔しい、というよりも、情けなかった。
そんな僕に同調したわけではないだろうが、真優理先輩も「ううん」と顔をしかめた。
「西田幾多郎の歌や。さすがに京大のエリートさんやな。難しいことを、簡単そうに言いよるわ」
「そうですね」とそっけなく返した僕に、真優理先輩はふん、と鼻を鳴らした。
「まあ、あの綾乃ちゃんには、いらん言葉やろな。……なあ、星河。あんた、あの子にふられたから、春花に乗り換えたんか?」
心の中を見透かされたような真優理先輩の問いに、僕の胸がぎゅっと締め付けられ、次いで血の気が引いた。
「ちがいますよ」
咄嗟にそう答えたものの、そう受け取られてもしかたのない状況だという自覚はあった。さらに追求されるかと身構えたが、真優理先輩はしばらく僕の目を見つめたあと、「それやったらええわ」とあっさり矛を収めた。
「正直言うとな、あの子にはかなわへんし、代わりも務められへんと思うてるんや。あれだけのことを言い切れるて、ほんまに、うらやましいわ」
綾乃の代わりなんて、誰にもできないだろうと僕は思う。だいいち、真優理先輩にそれを期待するなんて、ありえないことだった。
だが、そんなことよりも気になるのは、最後の一言だ。「うらやましい」ということは、真優理先輩はそうではない、という意味に他ならない。
「真優理先輩には、必要な言葉なんですか?」
僕の問いに、真優理先輩は、はははっと力なく笑った。
「そうやな。周りの期待や思惑を気にせんと、自分のやりたいことをやるには、それ相当の覚悟がいるからな。ウチはこんな言葉にでもすがらんと、できひんやろな……」
そこで言葉を切った真優理先輩は、ぼそぼそとした声で「ノウマク、サンマンダーバーザラダン、センダン、マーカロシャーナ、ソハタヤ、ウンタラタ、カンマン」と続けた。
「いまのは?」
「お不動さんの真言や。悩みや迷いを絶ち切ってください、って言うてるんや」
そう答える真優理先輩の横顔に、僕はどきりとした。
彼女らしからぬ弱さのようなもの、そう、だれか救ってください、だれか導いてくださいと訴える、ひどく孤独な魂を見たような気がした。それはまるで、なにかに耐えているかのようで、なにかに怯えているかのようで……。
僕は思わず、その横顔にシャッターを切った。
モノトーンの真優理先輩の背後に、桜の巨木の木陰に咲き残ったピンクの紫陽花が写りこんだ。
こちらを向いた真優理先輩は、僕を軽く睨んだ。
「あんた、案外いけずやな。こんな顔を撮ったって、見合い写真にならへんやろ」




