夏越(後)
上賀茂神社の境内を流れる小川は、百人一首に「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」と詠まれた名所だ。
その小川に架かる橋殿の周りには、すでに多くの見物客が集まっていた。
闇に包まれた境内に雅楽の音が揺蕩い、篝火がゆらゆらと辺りをオレンジ色に照らす。ぱちぱちと薪が爆ぜる音がして、火の粉が黄金の雨のように降る。
中臣祓詞が奏上されるなか、神職が木箱から紙人形を取り出して、次々に小川に流していく。
湿気を含んだそよ風が川面を渡り、春花の萌黄色のスカートと黒髪を揺らして、僕に届いた。濃い青葉の匂いは、夏の到来を予感させた。
気持ちよさそうに目を細めた春花の唇から、ふわりと言葉が流れ出る。
「ことしの、水無月のつごもりの、夕日のくだちの大祓に……」
フルートの音色を思わせる春花の声は、ささやきであっても、湿り気を含んだ大気をするりと通り抜けて、はっきりと、そしてとても心地よく耳に届く。
「あやまち犯しけむ、くさぐさの罪を、速川の瀬にいます瀬織津姫という神、大海原に持出なむ……」
春花の祝詞に合わせるように、神職が撒く紙人形がはらはらと水面に落ち、ならの小川の流れに浄められていく。
「科戸の風の、天の八重雲を吹き放つごとく、朝の御霧夕の御霧を、朝風夕風の吹き払うごとく……」
見上げた夜空の雲が晴れると、わし座のアルタイルが顔を覗かせた。あの辺りには、天の川が流れているはずだ。
春花の祝詞に包まれて、僕のなかで、ならの小川を流れていく白い紙人形が、天の川の星々に重なる。現実と幻想が交わり、その境界がゆっくりと溶けていく。
「祓へ給ひ清め給ふことを、天つ神国つ神八百万神等ともに、きこしめせとぞ宣る」
そう結ぶと、春花は柏手をふたつ打って深く頭を垂れた。
あわててそれを真似た僕に、春花が破顔した。彼女の作り物でない笑みを、僕は、ほんとうに久しぶりに見たように思った。
けれど。
春花は、ちいさく「あっ」と声を漏らすと、失言でもしたかのように、あわてて口元を掌で覆った。
七月に入ると、路子カフェの窓にすだれがかかった。
教育実習に出向いている春花に代わって、ここのところランチは小西先生の手によるものだった。
食後の紅茶をすすっていると、不意に小西先生の声がした。
「春花とのこと、責任を取る覚悟はできたかい」
僕はあやうく紅茶のカップを落とすところだった。おそらくは九谷焼の逸品だろうから、壊しでもしたら大変なことになる。
それはそれとして、小西先生の言いようはらしからぬ古風なもので、だとすればあえてそういう言い方をしているとしか思えなかった。
「その様子じゃ、まだそんなつもりはなさそうだね。もちろん、関係した責任がどうのこうのと言っているんじゃない。そうだね、やはりここは川端康成の『古都』だな。……ネタ晴らしになるが、いいかい?」
「ええ、どうぞ」
「登場人物のひとり、水木竜介は、愛する千重子を守るために、彼女の家に婿養子に入るという覚悟を示すんだよ」
小西先生の発言は、姪を大事に思う叔母の心情からのものだろう。
だが。
肝心の春花は、実家から逃げ出したいと考えている。流し雛のときも、自分と結婚するなら実家の家業を継ぐことを要請されると、暗に語っていたように思うし、ゴールデンウィークの一件のときは、はっきり「逃げたい」と言った。
そういった事情はあらかた承知しているだろうに、春花の実家に婿入りでもせよと言わんばかりの言いようは、どういうことなのだろうか。
「でも、春花はそれを望んでいないと思いますよ」
僕の反論に、小西先生は首を傾げた。
「どうして、そう思うんだい?」
「だって、家出したいっていうのは、そういうことでしょう」
小西先生は、なにかに合点がいったように、「なるほど」と手を打った。だが、彼女の口から続けて出た言葉は、またしても意外なものだった。
「ところで星河君は、春花の祝詞を聞いたことがあるかい?」
はい、と答えた僕に、小西先生はさらに問いを重ねた。
「どう感じた?」
僕は、すこしのあいだ言葉を選ぶ。
祝詞の本来の目的は大学の必修科目で教わっているから、僕が答えようとしていることは正しくないとわかっていた。けれど、僕は思ったままを言葉にした。
「聞いていて、すごく気持ちがいいと思いました。なんというか、夢見心地になる、という感じで」
うん、と小西先生は笑顔で頷いた。
「そうだろうね。あの子はものごころついた頃から、誰に教わるでもなく、誰から勧められるでもなく、祝詞を唱えていたんだ。あの子にとっては、お気に入りのラブソングを歌うくらいの感覚なんだろうね。それが高じて、いまではもう、あの子の実家にあまたいる神職たちでも、あれほど聞く者を魅了する祝詞を上げられる者はいない。好きこそものの上手なれ、だよ」
姪の自慢話をしたあとで、小西先生は「だからね」と、話を引き戻した。
「星河君も、そろそろ覚悟を決めたほうがいいんだ」




