第8話「再出発・普通の喫茶店」
第8話「再出発・普通の喫茶店」
店舗の全焼から数週間後。
清須市の中心街から少し外れた商店街の片隅に、真新しい木製の看板が掲げられていた。
『喫茶 本能寺』
かつての禍々しい赤黒い店舗デザインは影を潜め、白を基調とした落ち着いた内装。店内には心地よいジャズが流れ、大きな窓から穏やかな陽光が差し込んでいる。
「……ご覧ください、社長! これが、私たちが目指すべき『本物』の喫茶店です!」
厨房の中央で、明智光秀が両腕を広げ、感無量といった面持ちで叫んだ。
家康にオペレーションを売却して得た一千万円の大半は、旧店舗の解体費や近隣への補償、新店舗の保証金、内装工事費などに消えていった。
贅沢な設備を揃える余裕などない。
それでも、最低限の厨房と店舗だけは用意できた。
ようやく――本能寺は再出発にこぎつけたのだ。
「見てください! ピカピカに磨き上げられたステンレス製のシステムキッチン! 最新式の業務用オーブン! 温度管理もタイマーも正確で、安全装置まで完備! そして、誰が使っても一定の味を出せる業務用コーヒーマシン!……もう、秀吉殿を怒らせて炉を燃やす必要も、警察の事情聴取に怯える必要もないんです!」
光秀はタブレットの台帳を胸に抱きしめ、目頭を熱くさせた。
「今度こそ……今度こそ、まっとうで、平和で、持続可能な普通の喫茶店経営をやって見せますよ……!」
ホールでテーブルを拭いていた羽柴秀吉も、心底ほっとした表情で深々と頷いた。
「ワシも賛成ですわ、明智殿……! 朝起きて普通に開店準備をして、普通に接客して、普通にお給料をもらう……。もう永久機関の燃料にされて火傷を負う心配もないなんて、まるで夢のようですわ……」
秀吉の目にも、うっすらと涙が浮かんでいる。
第一部の地獄のような連勤と人柱生活を経て、彼が手に入れたのは「普通の労働環境」という何よりの平和だった。
だが――。
厨房のカウンターに肘をつき、新しく搬入されたピカピカの業務用オーブンを冷ややかな目で見つめる男が一人。
オーナー・織田信長である。
缶ビールをプシュッと開け、豪快に煽った信長は、心底つまらなさそうに鼻を鳴らした。
「……つまらん」
「つ、つまらんとは何ですか社長!?」
光秀がすかさずツッコむ。
「最新型の業務用機器ですよ!? 温度管理もタイマーも正確! 安全装置も三重に付いていて、異常があれば自動停止するんです!」
「だから、つまらんと言っておるのだ!」
信長はパイプ椅子をガタッと鳴らして立ち上がると、新調されたオーブンの扉を乱暴に開け閉めした。
「火力が弱すぎる! ピピッ、ピピッなどと澄ました音を立ておって! あの第一世代オーブンのような、炉の底から響く怒号のような重低音はどこへ行った!? 秀吉の【怒り】を喰らって赤々と咆哮する、あの圧倒的な熱気はどこへ行ったのだ!?」
「だから、あれのせいで店が燃え落ちたんでしょうがぁぁぁッ!」
光秀の悲鳴のような絶叫が店内に木霊する。
「いいですか社長! 感情エネルギーだの、第一世代設備だのは完全に封印・廃棄しました! あの狂気の火力に依存した経営はもう終わりです! これからは、普通の厨房で、普通の料理を、普通に提供して手堅く黒字を出すんです!」
「ふん! 普通の火で、普通の時間をかけて焼いた料理のどこに感動がある! そんなもの、俺が作る意味がないだろうが!」
信長は不機嫌そうに腕を組み、仁王立ちになった。
第一部では、秀吉の【怒り】を燃料にした狂気の超火力で、料理を一気に仕上げていた。
どれだけ信長が「今すぐ最高の一皿を出せ!」と命じたところで、普通のオーブンでは、第一世代オーブンのような規格外の火力を出すことなどできない。
「社長、分かってください。料理は『安全』と『再現性』があってこそ商売になるんです」
光秀は諭すように台帳を開いて見せた。
「家康殿に売ったオペレーションの代金があったからこそ、こうして再出発できたんです。でも、残った運転資金はごくわずかです。まずは無理のない原価率で定番メニューを固め、地道にリピーターを増やしていく。それが『普通の喫茶店』として生き残る唯一の道なんです」
「……ちっ」
信長は忌々しそうに舌打ちすると、カウンターの上に置かれた食パンの山と、普通のフライパン、そして普通のガスコンロへと視線を向けた。
光秀の言い分は正論だ。
手元に余裕がない以上、新しく異常なオーブンを開発する余裕などどこにもない。
今あるのは、このどこにでもある『普通の厨房』だけだ。
「……光秀」
「なんですか?」
信長はゆっくりとエプロンを首にかけ、腕まくりをした。
その瞳からつまらなさそうな色が消えた。代わりに、鋭い光が宿る。第一部で何度も見せた、料理に向き合ったときだけ現れる、あの目だった。
「火が弱ければ、火の通し方を変えればいいだけの話だ」
「……え?」
信長はガスコンロのツマミを回した。
ボッ。
青い静かな炎が上がる。
第一世代オーブンのような、天井を焦がす赤い火柱などどこにもない。
ごくありふれた、普通のガスの火だ。
信長はフライパンを火にかけ、バターを放り込んだ。
ジュワッ。
静かな音を立てて、バターが溶けていく。
「設備が普通だからと言って、出す料理まで普通でいい理由にはならん。……おい、秀吉! 卵と牛乳を持ってこい!」
「ひぇっ!? は、はいですわ!」
秀吉が脱兎のごとく冷蔵庫へ走る。
「社長、一体何を……?」
困惑する光秀の前で、信長は静かに集中を高めていた。
(強火で一気に仕上げるのが『縦』なら……弱火は、時間を使って味を重ねる『横』か)
脳裏をよぎったのは、あの白コートの男――本願寺顕如の言葉だった。
『弱火でじっくり煮込んだ方が、肉も柔らかくなるし、野菜の旨味も出る』
(……フン。あの野郎の顔がチラつくのは気に食わんがな)
信長はボウルの中で卵液を素早く溶きほぐし、絶妙な手つきでパンを浸した。
第一部では、暴走する超高火力に任せて「十二秒」で一気に焼き上げていたフレンチトースト。
だが今、信長が向かい合っているのは、弱く安定した青い炎だ。
信長はパンをフライパンへ滑り込ませる。
ジュゥゥゥ……。
耳に心地よい、穏やかな焼き音が厨房に響く。
信長はフライパンを火にかけたままにはしなかった。
火に近づけ、離し、また近づける。
パンの表面の色と、フライパンから伝わる感触を確かめるように、細かく位置を変えていく。
火力が弱ければ、火に当てる時間とバターの量、火から離すタイミングを変えればいい。
そこにあったのは、設備の異常出力に頼る姿ではない。
ただ純粋に、目の前の一皿を最高に美味くするため、五感を研ぎ澄ます一人の料理人の姿だった。
数分後。
「……できたぞ。食ってみろ」
信長が差し出した皿の上には、きつね色にムラなく焼き上げられた、一見するとごく普通のフレンチトーストが載っていた。
光秀と秀吉は顔を見合わせ、恐る恐るフォークを伸ばした。
一口、口へ運ぶ。
「……っ!?」
光秀の目が、カッと見開かれた。
第一部の爆発的な香ばしさとは違う。
普通の火でじっくりと熱を通されたフレンチトーストは、中心まで均一に温まり、パンの耳まで驚くほど柔らかくなっていた。
噛みしめるたびに、牛乳とバターの優しい甘みがじわりと口いっぱいに広がる。
「な、なんですかこれは……!? 派手な高火力はないのに、素材の旨味が極限まで引き出されている……!?」
「う、美味いですわぁぁぁッ!! 優しい……味が優しすぎて涙が出てきますわぁぁぁッ!!」
秀吉が皿を抱えて号泣する。
信長は缶ビールを煽り、不敵に口角を上げた。
「ハッ! 当たり前だ。設備が普通だろうが何だろうが、俺が作れば最高のものになるに決まっておる!」
「社長……!」
光秀は感動で胸を熱くした。
(この人は……本当に料理の天才だ。異常な装置がなくても、普通の厨房でこれほどの味を生み出せる……! これならいける! 奇をてらったバズや暴走に頼らなくても、この味と正しい経営があれば、今度こそ本能寺は素晴らしい店になれる……!)
「よし、光秀! このフレンチトースト、一皿三千円で出すぞ!」
「高すぎますわぁぁぁッ!? 何を根拠に三千円なんですか!!」
「俺が三千円の価値があると思ったからだ!」
「それは価格設定ではなく、社長の感想でしょうがぁぁぁッ!!」
「だーまーれー!! 最高の味には最高の対価が支払われるべきだろ!!」
「その『最高』を誰が決めるんですか!? 市場です! お客様です! 社長一人じゃありません!!」
新しくなった喫茶『本能寺』の厨房で、再び店長とオーナーの喧嘩が始まった。
しかし、その天井にはもう、赤い炎も黒い煙も上がっていない。
普通の厨房。
普通の火。
そして、変わらない料理への狂気。
喫茶『本能寺』の、静かで新しい再出発が、今ここに始まった。




