第9話「普通の店長・明智光秀」
第9話「普通の店長・明智光秀」
「……いいですか社長。商売において最も重要なのは、『原価率』と『回転率』です!」
リニューアルオープンから二週間後の早朝。
喫茶『本能寺』のフロア中央で、明智光秀がホワイトボードを前に熱弁を振るっていた。
ホワイトボードには、光秀が徹夜で書き上げた複雑な計算式とグラフ、そして『目標原価率30%以内!』という鬼気迫るスローガンが躍っている。
光秀は愛用のポロシャツの袖をまくりあげ、手に持った指示棒でバンバンとボードを叩いた。
「第8話で社長が作ったフレンチトーストは確かに極上でした! ですが一皿三千円などというバカげた価格設定は却下です! 商店街の個人喫茶店で出すモーニングの相場は、コーヒー代プラス数百円……高くても一千円が限界なんです!」
「何をぬかすか、光秀!」
カウンターのパイプ椅子で缶ビールを片手にふんぞり返るオーナー・織田信長が、大声を張り上げた。
「あの一皿を作るために、どれほどの上質なバターと高級牛乳、そして北海道産のこだわり卵を使っていると思っている! 三千円でも安すぎるくらいだ! 妥協した安物の材料など、俺の厨房に置くことすら許さん!」
「だから! その『こだわりすぎ』が経営を圧迫しているんですよ!!」
光秀はタブレットの画面を信長の眼前に突きつけた。
「ご覧ください! 社長が勝手に仕入れたあの高級卵、一個でうちのブレンドコーヒー一杯分の原価に匹敵するんですよ!? 一皿八百円で提供した場合、原価率は驚異の『75%』!! 出せば出すほど赤字になる悪魔のメニューですわ!!」
「ハッ! 利益など後からついてくる! 美味いものを食わせれば客は喜び、また来る! 何の問題がある!」
「大問題ですわぁぁぁッ!! 利益が出なければ来月の家賃も、秀吉殿のお給料も払えずに即・倒産です!!」
「ワシのお給料が出ないのは絶対に困りますわ明智殿!!」
ホールでモップがけをしていた羽柴秀吉が、涙目で叫びながら光秀の背後に隠れた。第一部の地獄労働から解放された秀吉にとって、今の命綱は光秀が提示する「まっとうな給与」だけなのだ。
光秀は深くため息をつき、自らの額を押さえた。胃のあたりに、第一部で感じたあの懐かしい激痛が走り抜ける。
(だめだ……この人は『料理人』としては天才だが、『経営者』としては正真正銘の破滅型だ。私が守らなければ……この店は第一部とは違う意味で燃え落ちてしまう!)
光秀の瞳に、店長としての強い覚悟の火が宿った。
「決まりです。今日からメニューの価格、原価、そしてオペレーションはすべて店長であるこの私が管理します! 社長には一切の口出しをさせません!」
「なに……? 俺に料理の口出しをするなと言うのか、光秀?」
信長の眼光がギラリと鋭く光る。店内を一瞬で凍りつかせるような、圧倒的な王の威圧感。
だが、今の光秀は怯まなかった。胸のポケットから『店長』と書かれたネームプレートを取り出し、胸にピシッと装着してみせる。
「そうです! 信長様は最高の料理を作る『シェフ』に専念してください! 店を存続させ、数字を管理し、継続的な黒字を出すのは『店長』である私の仕事です!」
「……ほう」
信長は不敵に口角を上げた。
「面白ぇ。普通の厨房で普通の経営をして、どこまで俺の料理を受け止められるか、試してみるがいい!」
「望むところです!!」
こうして、店長・明智光秀による「徹底的な数値管理経営」が始まった。
午前八時。開店のベルが鳴る。
「いらっしゃいませ! 喫茶『本能寺』へようこそ!」
光秀の爽やかな挨拶が店内に響く。
第一部のようなSNSの爆発的バズによる狂気の行列はない。だが、近所の主婦やサラリーマン、商店街の常連客たちが、噂を聞きつけてパラパラと足を踏み入れ始めていた。
光秀は目にも留まらぬ手際で注文を取り、タブレットに入力する。
「秀吉殿! テーブル番号3番、ブレンド二つと定番のモーニングセットです! 提供目標時間は三分!」
「了解ですわ明智殿! 抽出ボタンポチッとな!」
秀吉がボタンを押すと、業務用コーヒーマシンが『ウィーン』と静かな音を立てて正確にコーヒーを注ぎ分ける。第一世代オーブンのような命の危険もなければ、爆発の恐怖もない。
「素晴らしい……! 再現性と安全性が完璧だ……!」
光秀は感動に震えながら、厨房の信長へ指示を出した。
「社長! フレンチトースト一丁! 原価率を抑えるため、仕込み量は規定のグラム数を厳守してください!」
「ふん、指図するな!」
信長は悪態をつきつつも、フライパンを握った。
第一部のように超火力で一気に焼くのではない。信長は弱火のガスコンロの上でフライパンを絶妙に揺らし、熱の伝わり方を完璧にコントロールしていく。
出来上がったフレンチトーストは、きつね色の美しい焼き目がつき、カットされた断面からは優しい甘い香りが漂っていた。価格は光秀が設定した、コーヒー付きモーニング特別価格の「780円」。
運ばれていったモーニングセットを口にしたサラリーマンが、驚愕の表情で目を見開く。
「な……なんだこれ……!? 商店街の普通の喫茶店のフレンチトーストじゃないぞ……めちゃくちゃ美味い!!」
「でしょ!? コーヒーも飲みやすくて最高だし、お店も綺麗だし!」
客たちの間から、満足げな笑顔と歓声が上がった。
光秀はレジの横で、タブレットの数値を食い入るように見つめていた。
(客単価780円、平均滞在時間25分。客席回転率も想定の1.2倍。食材のロス率も限りなくゼロに近い!)
第一部のような、設備を壊しながら叩き出す異常な売上ではない。
だが、確実にお金が残り、客が笑顔になり、従業員が疲弊しない「正しく健全な利益」が積み上がっていく。
「これだ……! これが、私の目指していた『まっとうな経営』だ……!」
光秀は涙ぐみながら、レジの引き出しにしまわれた硬貨と紙幣を見つめた。
しかし――。
厨房では、信長が缶ビールを握りつぶし、苛立ちを募らせていた。
「光秀ぇぇぇッ!!」
信長が怒号を上げて厨房から飛び出してきた。
「なんだこの卵液の量は! もっと卵を贅沢に使わねば、中のトロトロ感が完璧にならんではないか! バターもケチるな! 厚みもあと五ミリ厚く切らせろ!」
「だーめーでーすー!!」
光秀はすかさず立ちはだかり、腕で大きなバツ印を作った。
「これ以上バターと卵を増やしたら、一皿あたりの粗利がたった三十円しか残らなくなるんですよ! 30円ですよ!? そこから光熱費も人件費も家賃も払うんです!!」
信長は本気で不思議そうに首を傾げた。
「三十円も残るではないか! 利益が出るなら、その三十円でさらに美味い材料を買えば良いだろう!」
「三十円で何が買えるんですかぁぁぁッ!? ガス代も電気代も払えなくなります!!」
「客が食って『美味い』と言っておるのだぞ!? 最高の味を提供すること以上に重要なことがどこにある!!」
「店を来月も存続させることです!!」
光秀の譲れない叫びが店内に響き渡る。
二人の主張は、どちらも間違っていなかった。
信長はどこまでも「最高の一皿」を追求する料理狂。
光秀はどこまでも「店を存続させる」責任を負う経営者。
目的は同じ「本能寺を良い店にする」ことなのに、そのアプローチは永遠に噛み合わない。
「……ハッ! 小さな数字を気にして、何が店長だ。器が小さすぎるぞ、光秀!」
「器が小さいと言われようが結構です! 私はこの店を絶対につぶさない! 社長がどれだけ暴れようと、私がすべてコントロールしてみせます!」
二人がバチバチと視線の火花を散らす横で、秀吉がホッと息をついた。
「……まあでも、第一部みたいに店が燃えたり、ワシが死にかけたりしないだけ、今のケンカは平和で最高ですわぁ……」
だが、売上データを集計していた光秀は、タブレットの画面に表示された来店傾向を見て、ほんのわずかに眉をひそめた。
(客の満足度は高い。黒字も出ている。……だが、同じお客様が毎日通ってくれるわけではない。看板メニューのフレンチトーストだけでは、やがて飽きが来る……)
光秀は静かにタブレットを閉じた。
「……次は、新メニューの開発が必要です」
その言葉を聞いた瞬間、厨房の奥で信長の瞳がギラリと怪しく光った。
「ほう……新メニューか」
光秀の背筋に、冷や汗とともに烈しい嫌な予感が走り抜けた。
(……しまった。この男に『新メニュー開発』なんて言葉を聞かせてはいけなかった……!)
普通の厨房。
健全な経営。
そして――解き放たれる、新たな料理への狂気。
喫茶『本能寺』の平和な日常は、早くも嵐の予感を孕み始めていた。




