第6話「本願寺顕如編・感情エネルギーという資源」
第6話「本願寺顕如編・感情エネルギーという資源」
昼の猛烈なピークタイムが過ぎ去り、厨房の換気扇がけたたましい音を立て続ける店内には、嵐の去った後のような気だるい静けさが広がっていた。
喫茶『本能寺』のガラス扉が静かに開き、一人の男が足を踏み入れた。
仕立ての良さがひと目でわかる白いロングコート。
隙なく整えられた髪に、眼鏡の奥で光る知的な瞳。
その男がカウンター席の中央に腰を下ろすと、油煙とコーヒーの香りが充満する店内の空気から、ふっと浮き上がるような異質な存在感を放っていた。
男は上品な所作で、無言のままメニューを開く。
「……明智殿。あの客、ただ者じゃありませんぜ」
皿を片付けていた羽柴秀吉が、厨房の明智光秀に小声で囁いた。
「そうだな。立ち居振る舞いに隙がない。失礼のないように頼む」
「へいへい。笑顔なら任せてくだせえ」
秀吉は胡散臭いほど完璧な営業スマイルを貼り直し、水の入ったグラスを手に滑るように歩み寄った。
「いらっしゃいませ! 本能寺へようこそ! ご注文はお決まりですか?」
「……ホットサンドのセットを。コーヒーはブレンドで」
男の声音は低く、どこか冷徹な響きを含んでいた。
「かしこまりました! ホットサンドのセットとブレンドコーヒーですね。すぐにご用意いたします!」
数分後、秀吉が手際よく配膳した。
光秀が神経をすり減らしながら丁寧に淹れたコーヒーと、黄金色に香ばしく焼かれたホットサンドが、男の前に並べられる。
男は静かにカップを持ち上げ、まずは一口、コーヒーの味を確かめた。 目を閉じ、舌の上でその味を転がす。
それから、カウンターの奥へ視線を移した。
赤々と不穏な熱気を放つ『第一世代本能寺オーブン』。
客足の引いたこの時間帯であるにもかかわらず、その炉体からはズズズ……と床を震わせるような異様な重低音が響き渡り、尋常ならざる高熱を周囲に放散していた。
男の瞳が、炉内で不規則に揺らぐ炎をじっと捉えた。
「……なるほど。立ち上がりが速い。だが、炎の揺らぎが大きい。それに、この重低音……」
男はカップをソーサーに戻し、炉体を観察しながら独り言のように呟いた。
「客足の引いた時間帯でもこの出力か。炉体の振動も大きい。出力を安定させる制御機構を備えているようには見えないが……まさか、このまま調理に使っているのか」
その言葉を聞いた瞬間、光秀の背中に冷や汗が走った。
(まさか……見ただけでオーブンの仕組みを見抜いたのか……!?)
男は炎を見つめたまま、静かに目を細めた。
「この出力特性……。【怒り】のチャンネルを使っているのですね。瞬間的な火力は申し分ないが、熱量にムラがある。これでは安定した熱供給には向かない」
(怒りのチャンネルまで特定した……。この男、いったい何者なんだ!?)
「ほう。見慣れん面構えだが、なかなか面白いことを言う客だな」
バックヤードの暖簾を乱暴に押し分け、ピークを終えたばかりだというのに缶ビールをプシュッと開けたオーナー・織田信長が姿を現した。
信長は男の隣のパイプ椅子を引き寄せると、ドカッと腰を下ろし、獰猛な笑みを浮かべた。
「料理の味に文句があるなら、直接俺に言え。俺がこの店のオーナー、織田信長だ」
「お初にお目にかかります、織田社長。私は、本願寺顕如と申します」
名乗った男は、巨人のような信長を前にしても微動だにせず、静かに見返した。
「本願寺……!? まさか、国内最大手のメガソーラー開発企業にして、エネルギー業界の巨頭――『本願寺エネルギーホールディングス』の総帥ですか!?」
光秀が思わずカウンターから身を乗り出し、驚愕の声を上げた。
「お忍びの視察というわけか、顕如。だが、あんたの目は最初から俺の作った料理ではなく、あのオーブンに向いていたな」
「ええ。フロイスがネット上に投稿した記事を見かけましてね」
顕如は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「表舞台から姿を消したはずの感情エネルギー技術が、実際の調理設備として稼働している。しかも、連日これほどの客を集めている。興味を持つなという方が無理でしょう」
「ほう。そいつは光栄だな」
「我が社も、感情エネルギーの実用化を進めてきました。松永久秀と組み、太陽光発電を補う新たなエネルギー源にできないかと研究していたのですが……」
「できなかったのか?」
「ええ。感情エネルギーは、出力を安定させようと制御すると減衰する。さらに、電力へ変換する際にも損失が生じる。結局、設備を動かすだけの電力を確保できなかったのです」
顕如はオーブンを見つめた。
「ところが、あなたの店は違う。制御による安定化も、電力への変換も経ず、感情エネルギーを直接、調理の熱として利用している」
「当たり前だろう。料理に使う火を、わざわざ電気に変える必要があるのか?」
信長は缶ビールを豪快にあおった。
「料理を美味くするんだろう? だったら火を使えばいい! 怒りで火が出るなら、怒りをそのまま使えばいい! 何を難しく考えておる!」
「……私は、持続可能で安定したエネルギーを追求している。一瞬だけ強い火を焚くのではない。必要なときに、必要なだけの火を供給し続けたいのです」
「なるほどな。強い火も弱い火も、欲しいときに欲しいだけ使いたいわけか」
「ええ。ですが、今の技術では出力を安定させようとするほど、エネルギーが減衰してしまう」
「だったら、火を無理に安定させることだけ考えるな。火が強すぎるなら、料理の方を動かせばいい」
「料理を動かす?」
「火に近づけたり、遠ざけたりするんだよ。熱が強すぎるなら鉄板で遮ってもいい。焼きすぎる前に外へ出して、頃合いを見て戻す」
信長は、さも当然という顔で肩をすくめた。
「火を思いどおりに変えられねえなら、こっちが使い方を変えりゃいい」
顕如は、しばらく黙ってオーブンを見つめていた。
「……なるほど。熱源を制御する代わりに、使い方を工夫するわけですね」
「そういうことだ。だが、火との距離を変えるだけじゃ、うまくいかねえ料理もある」
「と、言いますと?」
「肉の表面を香ばしく焼くなら強火がいい。だが、煮込み料理をじっくり仕上げるなら、弱火の方が向いている。最初から弱い火を使えばいいんだよ」
顕如の目が、わずかに見開かれた。
「……料理に合わせて、熱源そのものを使い分ける」
「やっと分かったか」
信長はニヤリと笑った。
「一気に仕上げる料理もあれば、時間をかけて味を引き出す料理もある。どっちが上でも下でもねえ。何を作るかで使い分ける。それだけだ」
二人の間に、静かな沈黙が落ちた。
顕如は、ゆっくりとオーブンへ視線を戻した。
(我々は、強すぎる出力を抑え、弱ければ補い、電力へ変換しようとしてきた。エネルギーそのものを、こちらの都合に合わせようとしていたのか……)
信長の言葉が、顕如の中で一つの仮説に変わった。
(怒りを無理に弱める必要はない。感情ごとの出力特性を見極め、その性質に合った用途へ振り分ければいい……!)
「……なるほど。感情エネルギーを無理に加工するのではなく、それぞれの特性を生かして使い分ける。そこから考え直せばいいのですね」
顕如の表情に、研究者としての高揚が浮かんだ。
「おい。俺は料理の話をしていただけだぞ」
「ええ。ですが、その発想が必要だったのです」
顕如は音もなくスッと立ち上がった。
財布から代金を取り出し、一瞬の澱みもなくテーブルにピタリと置くと、コートの裾を整えた。
「ごちそうさまでした、織田社長」
顕如は、カウンターの奥で唸るオーブンに目を向けた。
「……あの火で、よくここまで料理を仕上げるものですね」
「ほう。褒めているのか?」
「料理は見事でした。ただ、気になったのは設備の負荷です。客足の引いた今でさえ、炉体は大きな振動を伴い、周囲には強い熱が伝わっている。これほどの出力を連続して扱うなら、設備への負荷も相当なものでしょう。ピーク時には、どこまで出力が上がるのですか」
「さあな。火力なら、まだ上げられるぞ」
信長は獰猛に口角を吊り上げ、鼻を鳴らした。
顕如は眼鏡のブリッジを押し上げ、静かに告げた。
「耐久性まで十分に考慮されているのか、気になりますね。その火を使いこなすのか。それとも、いつか火に使い潰されるのか……楽しみにしていますよ」
「ガハハハ! だったら最後まで見ていろ!」
顕如はそれ以上何も言わず、静かに店を後にした。 ガラス扉が閉まり、カラン……と小さなベルの音が店内に響く。
「弱火の煮込み料理、か」
信長は空になったビール缶を片手でグシャリと握りつぶした。
「俺にはできんやり方だ。だが……あいつが時間をかけて煮込んだ料理、どんな味になるのか食ってみたくなった」
光秀が目を丸くした。
「……社長が、他人の料理を食べてみたいと?」
「勘違いするな! 認めたわけじゃねえ!」
信長は不敵に目をギラつかせた。
「俺には作れん料理を作る奴が現れたんだ。だったら、確かめずにはいられんだろうが!」
◇
一方――。
本能寺を出た顕如は、黒塗りの高級セダンの後部座席に静かに乗り込み、車窓の外を流れる清須の景色を見つめていた。 助手席の下間頼廉が振り返り、顕如の横顔を窺う。
「会長、いかがでしたか? あの店は」
「……恐ろしい店でしたよ、頼廉」
顕如は静かに答えた。
「設備への負荷は、かなり大きいでしょう。あのまま出力を上げ続ければ、いずれ炉体が熱と振動に耐えられなくなるかもしれません。ですが――私たちが長年見落としていたものを、あの店は当たり前のように使っていた」
顕如は目を閉じ、膝の上で指を組んだ。
(何年も研究を続けてきた私たちが超えられなかった壁を、彼は料理の常識として軽々と踏み越えていたのか……)
胸の奥をかすめたわずかな屈辱を、遥かに凌駕する知的興奮が渦巻いていた。
顕如は目を見開いた。
「……頼廉」
「はい」
「各感情チャンネルの出力特性を測定し、用途に応じて選択できる仕組みを試作しなさい」
「承知しました。まずは各チャンネルの特性を測定し、選択機構を試作する。そのうえで、電力変換の研究も再開するのですね?」
「ええ。ただし、電力への変換だけに絞る必要もありません」
顕如は窓の外へ目を向けた。
「あの店を見る限り、感情エネルギーを電力などに変換せず、発生した熱をそのまま利用する方法にも可能性がある。変換による損失を抑えられるのなら、検証する価値は十分にあるでしょう」
「熱の直接利用……?」
「そうです。電力への変換実験と並行して、熱源としての直接利用も検証するのです」
顕如は少し考え、口元を緩めた。
「強い火を一瞬だけ必要とする用途もあれば、弱い熱を長時間維持したい用途もある。ならば、感情ごとの特性を生かせるはずです」
「例えば、厨房設備ですか?」
「ええ。煮込み料理なら、強烈な火力よりも、弱い熱を長時間維持する方が向いているでしょう」
頼廉は少し考え、実務的な疑問を口にした。
「なるほど……理屈としては分かります。しかし、研究室での試験と実際の厨房では条件が異なります。協力してくれる店を探すにしても、営業中に出力を切り替えたりすれば、相手の料理の品質や信用にも影響します」
顕如は一瞬だけ考え込んだ。
「……ならば、試験環境ごと自分たちで用意すればいい」
「試験環境ごと、ですか?」
「ええ。設備の性能だけでなく、実際の調理で使えるか、客に提供できる品質を保てるか、事業として採算が取れるか。それらを同時に確かめるのです」
「つまり、飲食店そのものを実験場にするのですか?」
「ええ。研究だけで終わらせるつもりはありません。設備が使えるなら商売になる。商売になれば、実証実験も続けられる」
顕如は窓の外に目を向け、遠ざかる本能寺の看板に静かな笑みを浮かべた。
「本願寺エネルギーホールディングス直営の実証店舗――本願寺カフェです」
「ええ。研究だけで終わらせるつもりはありません。設備が使えるなら商売になる。商売になれば、実証実験も続けられる」
「本願寺エネルギーホールディングス直営の実証店舗――本願寺カフェです」
「……会長。まさか、今日中に店舗の物件まで探し始めるおつもりでは?」
「もちろん。物件探しと並行して進めます。試作機の名前は『ヒートクック』にしましょう」
「会長、完全にあの本能寺に影響されていませんか?」
「いいえ。これは我が社の研究成果を実証するための事業です」
顕如は窓の外へ目を向けた。遠ざかる本能寺の看板に、静かな笑みを浮かべる。
「……ただ、あれほどの火を扱う料理人に出会ったのです。こちらも、相応の料理で返さねば失礼というものでしょう」
◇
一人は、強い感情をそのまま火に変える。
もう一人は、感情を無理に加工せず、用途に応じて使い分ける。
強火と弱火。
瞬間と持続。
本能寺と本願寺。
互いの火は、まだ異なる道を歩んでいた。
だが、どちらも相手の火が気になり始めていた。
そして――。
限界に近づきつつある喫茶『本能寺』の炉は、自らの放つ制御不能な炎によって、静かに破滅のカウントダウンを始めていた。




